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「私なんて」なんて思ったことない?

自分の自己肯定感が低いことに気づいたのは、けっこう最近のことだ。「私なんて」と思ってしまうという話がよくあるが、わたしは「私なんて」なんて思ったことがない、と長らく思っていた。むしろ、自己肯定感が低いと言っているひとに対して、なに甘えたこと言ってんのくらいに思っていた。

「私なんて」と自覚的に思っている人のほうがまだ救いがあると思う。わたしのように自分の気持ちに気づかない(のか見ないようにしてきたのか)と、思わぬときに心にガタがくる。熱があるのに気づかないで走り回って、あとでぐったりする子どものようだ。

わたしは「私なんて」と思う代わりに、自分は謙虚なんだと思っていた。たとえば、たとえば私なんかがFacebookの友達申請したら迷惑かなとか(もうここで「私なんか」が出てきているのに気づいていないw)、だれかにちょっとしたお礼をしたいと思っても、相手はびっくりして引いちゃうかなとか、相手に気を遣わせることになってかえって迷惑かなとか。SNSなどでコメントを書くことすら、けっこう勇気が必要だ。
いつもそうやって不要な遠慮をしてきた。思い切って行動に移せば、相手はけっこう普通に反応してくれたり、喜んでくれたりすることもあったのに。

自己肯定感が低くなった原因には外部的な要因が一つにはあるのだけど、恨み言になりそうなのでここでは触れないでおく。
それに、その要因となったものとはだいぶ前におさらばした。友人にはおさらばの行動をやんわりとがめられたりもしたけど、世間の常識よりも自分の意志を貫いたことは自分でもグッジョブだと思っている。

自己肯定感の低さは、自己主張のしかたを斜めにする。
わたしのいいところを見てくれる友だちもいるけど、みんななんとなくわたしに対して複雑な気持ちを抱いていたんじゃないのかなと思う。
いつもピリピリしているイメージがある、何かというと異を唱えるよねと、実際に友人から言われたことがある。次はなにを言い出すんだろうって、家政婦は見た状態でわたしのことを見てるというひともいた。そう言われたときは心外だなあと思ったのだけど、今ならそのとおりだと思う。


何十年も無自覚なまま抱えてきた低い自己肯定感を、おいそれと追い出すことは簡単じゃないかもしれない。「あたしってすごーい」と自分に言い聞かせるのも、わたしにはちょっと違うような気がする。

自己肯定感が低いことそれ自体が問題というよりも、それによっていろいろな行動に制限がかかってしまうことのほうが問題だと思う。

なんでこんなことを書いているかというと、ふだんあんまり話をしないひとにあることについてお礼の手紙を書きたいなと思ったのだけど、いつものとおり、「私なんか」が手紙を書いたら「迷惑」なのかもという躊躇していたのだ。なんでそんなことで躊躇してんだろうと考えていたら、そうかー、自己肯定感の低さのせいかと改めて思い始めたというわけで。

相手が迷惑に思っているか喜んでいるかなんて、ほんとうのところはわからない。だけど、多大な迷惑をかけるのでなければ、相手基準じゃなくて自分がそうしたいからそうするでもいいんじゃないだろうか。迷惑かけちゃいけないと言いつつ、ほんとうは自分が相手に受け入れられないという不安があって、拒否されるのがいやなだけなんだから。

だから少しずつ成功経験をしていくことが必要なんだと思う。そうするとわたしはアホなので特攻隊のように突進して撃沈してしまうので、安全なところからやらないといけない。
だけど、また関所があって、安全なところからというのはずるいという思い込みがわたしにはある(一人で行動できず、ずっとホームにいたりだれかとつるむのもずるいことだと思い込んでいる)。
わたしは毎日スクワットをしているのだけど、今は1日25回しかやっていない。いきなり50回100回なんてできないし、無理やりやろうとすればフォームが崩れてスクワットの意味がなくなってしまう。
そう考えれば、いきなりずるくないところからやっても、成功経験ができなくなて意味がない。だから、ちょっとずつちょっとずつ1日1回じゃなくても、1週間に1回でもいいから、ずるいところからはじめてみようと思う。
お手紙書こう。


自己肯定感がだだ下がりする目玉焼き↓↓

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