役に立つことは必要なのか
ひとの役に立つ仕事に就きたいと思っていた時期があった。医療関係は年齢的に難しそうだから、人道支援系とかそういう職業を検討してみたこともあった。
でも、それは欺瞞だったんだと思う。ほんとうにやりたかったら、40歳をすぎて医師や看護師になったひとも存在するからまったく不可能ではなく、本気なら年齢関係なく挑戦したはずだから。
ひとや社会の役に立たない仕事はないとも言われるけれど、やや皮肉も込めて言えば、色んな意味でそれは確かにそうだと思う。
わたしが今やってる仕事なんか、役に立つどころかその必要性についても微妙だ。だけど、その商品が必要だということを広告やらなんやらで消費者を洗脳している企業にとっては、わたしの仕事は必要なんだろう。そういう意味では企業に対して役には立っている。あとは、わたしの生活を経済的支えるという意味でも役に立っている。
公務員の天下りなんてのも、お金ばっかりかかってなんの役にも立ってなさそうなんだけど、そういう実績をつくることで後発組も甘い汁を吸えるということに貢献してるんだと思う。
何年か前に大学の人文系の学部はいらんのではという話が持ち上がったり、最近は教育へ回す税金が少ないとか言われているように、教育や学術の文脈でも役に立つ・立たないの論争がある。
その学問が役に立つかどうかは、その学問に責任があるのではなく、本人次第なんじゃないかとわたしは思う。
40代になって大学の通信課程に入り直したのだけど、恥ずかしながら現役の大学生だったときに学んだはずのことを、イチから勉強し直した。レポートの書き方からとかそういうレベル。いったい当時の自分はなにをしていたんだ!? と思う。
ビジネス系の大学院とかに行けば、学んだ内容が直接的に仕事に役に立つのかもしれない。わたしは哲学周りのことをリベラルアーツ的に学んだだけなんだけど、それでも大学に入り直してさまざまな文献を読んだことで、生活するうえで総合的に勉強が役に立ったと思っている。
たとえば、根拠のない意見の浅さはわかるようになったので、ブラック上司とかブラック取引先とかにいちいち腹をたてることもなくなったとか。思い込みが減って自分の考えが正しいかどうか検証するようにもなったとか。そもそもそれがほんとうに自分の考えなのかどうかとか、正しいという判断そのものも疑うようになったとか。(こうして書いてみると、あんまり説得力のある内容じゃないけど……)
多くのひとにはこれらすべては当たり前のことなんだろうけど、わたしは一切ができていなかった。それに、こんなことは学問を通さなくたって身につけることはできるんだと思う。
機会(経験)はなんであれ、本人がそれをいろいろなことに役立てられるか、それとも応用できなくてそのままになってしまうか。だから本人次第なのだ。
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さて、役に立つということに話を戻せば、広く社会に対して自分を役立てることができるひともいれば、自分の周り1mくらいのひともいるだろう。あるいは特定の限られたひとたちや分野に役立てるひともいると思う。
どれがいいとか悪いとかじゃなくて、せめて最低でも自分の役に立っていればもうそれでオッケーなんではないか。
うちで飼っている猫は、猫村さんみたいに掃除や料理をしてくれるわけでもないから、実務的にはなんの役にも立たないけど、いるだけでうれしい。そのように人間に思わせるという意味では役に立っているとも言えるけど、それ目当てで一緒にいるわけではない。自分の子どもに対しても、役に立つからという理由で一緒にいるひとはいないと思う。それと同じ。
ナルシストじゃないので、わたしという人間がいるだけで価値があるなんてことは思わないけど、自分に対しても他人に対しても、あるいはなんらかの行動や物に対しても、役に立つ・立たないの区分で要不要をジャッジすることをしすぎてはいけないと思った。
…のだけど、なんの役にも立たないつまんない話に付き合わされ始めると、うんざりしてきちゃうのは、言ってること矛盾してますかね。
ともあれそんなこんなで、(わかりやすい形で)ひとに、社会に役に立ちたいの! という欺瞞的な夢から覚めたのでした。