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頑張らなくなったら給料が上がったのはどうしてだろう

「頑張らない生き方」とか「頑張らない働き方」というフレーズのように、「頑張らない」という否定形のことばが、ポジティブなことばとしてとらえられるようが多くなりました。

昭和の教育を受けてきたわたしにとって、あえて頑張らないことはなかなかに難しいです。
かといって、なにごとにおいても頑張っているわけではもちろんありません。頑張れないこともあります。むしろ、頑張れることよりも頑張れないことのほうが多いです。
やりたいことが困難を伴いそうなものだったら、これができるようになるひとはよっぽどその才能があるひとだけだと思い込み、頑張ってやろうとしない。あるいは、ちょっとやってはみるものの途中でやめてしまう。

そういう生き方をしてきたので、これが得意である!と胸を張って言えるほどにできることがわたしにはありません。

一方で、昭和な教育を受けているくせに、やりたくないことでも頑張るという根性も身につきませんでしたから、たとえば口下手な営業マンがトップの成績をあげるなどという、意外な能力が発揮されたということもありません。

これまでの人生でしてきたことは、自分がそこそこにできることで、すごく嫌でもなく、かつ、ものすごい努力が必要というわけでもないことだけです。

会社員時代はそれなりに頑張った時期もありますが、その頑張りとは、徹夜してでも正月返上してでも納期に間に合わせるといった量的な頑張りです。間に合わせなければというプレッシャーへの感度と丈夫な肉体があれば、べつに努力しなくてもできることです。
こういう頑張りをしたあとのやり遂げた感は、自分へのご褒美のネタとなるので癖になります。
浴びるようにビールを飲んじゃうとか、躊躇なく伊勢丹でお洋服を買うとか。これは、子どもが親にプレゼントするお手伝い券みたいなものです。徹夜を1回すれば酔っぱらっていいよ券1枚とか、休日出勤1回でお洋服買っていいよ券1枚を自分で自分に与えるのです。
だんだんと、この券がなければ飲み食い買い物に温泉旅行などはしてはいけないと思うようになります。

会社員のする仕事はまずは納期ありきですから、量的頑張りをすれば自分にふりかかってくる仕事量は当然増えます。
質にこだわって土壇場で「できません」と言うひとよりも、多少できが悪くても納期を守ってくれるひとのほうがいいんです。調整なんてあとでいくらでもできます。
「できていて、そこにあること」が彼らの安心材料なので、量的頑張りが必要とされます。質をよくしようとする質的頑張りはあってもいいけれど、納期を脅かすのならばなくていいものです。
質のよい仕事なんてほとんどの会社には不要で、万が一質がよかった結果あたりが出たとしても、それは事故みたいなものです。
質のよいモノやサービスを出すのが当たり前だという認識をもつ会社はほんの一握りだと思います。

えーと何の話でしたっけ。あ、休みもなく頑張ったという自慢にもならない自慢話でしたね。
で、たいしたことでもないのにわたしが会社で2回くらい表彰されちゃったもんですから、この量的頑張りを一応は評価しなければと上の者どもが思ったんでしょう。わたしは一個昇進しました。
そうしたらば仕事が、メンバーの監視とどうでもいい会議だけになったので、量的頑張りをしなくてよくなりました。盆も正月もゴールデンウイークもちゃんと休めます。

ですが量的に頑張らなくなってから、なぜか年収が上がりました。どうしてなのか、当時はわけがわかりませんでした。

その頃、メンバーが頻繁にエラーを起こしていたので、ひまなわたしがいつもお客さんのところや社内の関係部署に、もう二度としません案を携えて謝罪に行っていました。口ではやんなっちゃうなあと言いながら、自分に少々の後ろめたさがありました。
彼らは仕事量が多いから、エラーを出す確率は高い(ちょっと多すぎるけど)。かたやこっちの仕事は監視と会議しかないので、エラーを起こす確率は低くなります。
エラーを頻発させた彼らは昇進もなく昇給も雀の涙で、賞与の査定も業績が良くても悪くても今ひとつでした。
売上に直接的に貢献しているのは間違いなく手足を動かしている彼らなのに、おかしいよねと思いました。

今ごろになってわかったのですが、頑張らなければ給料が上がったのは仕事量が減ったから、要するにただの確率の問題だったのです。
頑張って多くの仕事を抱えて失敗をするよりも、監視と会議だけしているほうがお得だったんです。
会社は波が立つことを嫌いますから、平穏無事であれば優秀みたいに思ってくれるんです。給料を上げるには量的に頑張らないほうが効率がいいのです。
もちろん責任の軽重の問題もありますが、日本の会社ってよっぽどのことでもない限り、平社員はもちろん管理職にも真の意味での責任を問うことはないと思います。

という恵まれた環境にいましたが、そんな確率だけの世界(当時は気づいていませんでしたが)につまらなくなって、ほどなくしてそこから足を洗いました。

わたしたちが嫌よ嫌よと言いつつも頑張るのはなぜでしょう。頑張っても達成感が一瞬で消えてしまうのはなぜでしょう。
頑張りたいから頑張っているんだとは思いますが、その目的が他律的になっていないかどうか。他律的なのに自分の意志だと思いこんでいないかどうか。みんながそこを真面目に考えたら、いらぬ頑張りが減るんじゃないでしょうか。

頑張りたいことはひとによって違うはずです。みんなが同じことをしようとしなくてもいいんだと思います。
でも、社会のなかでは、頑張りたいこと(職種とか、社会的意義とか)に優劣が付けられてしまいがちです。そのせいで合わないことをし始めちゃうひともいます。
そんな優劣を気にせずに、「頑張りたいこと=自らやりたいこと」としてみんなが動けば、もう少し個人と世の中が楽しくなるんじゃないかと思うのは、ちょっときれいすぎる結論でしょうか。

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