りんごはみかんじゃない
いつからわたしは目の前のりんごがりんごじゃないかもしれないと思うようになったのだろう。
いつから世界に勝手な解釈を加えるようになったんだろう。
いつから世界は優しくないと思うようになったんだろう。
ここでいう世界っていうのは、自分が経験すること、つまり日常生活のこととか他者のこと、ということにしておく。
世界に対して、自分にとって楽しくない解釈をわざわざして、勝手に気分悪くなったり、苦しくなったりしていた。
高校生の一時期、ちょっとしたバンドに属していた。そのバンドでライブをやることになり、チケットを近所の友達に売った。
後日、うちの母親から「◯◯ちゃんのお母さんに、まきちゃん、しっかりしてるわね、って言われちゃったわ」と言われた。
そのときのわたしは「しっかりしてる」の裏の意味がわからず、褒められたと思い、てへへ的なリアクションをしたら、母親がため息をついた。
「がめついってことよ」とたしなめられた。
あ、そうでしたか。
その一件以来、わたしのなかで世界がちょっと変わった。
言葉には裏表がある。ちゃんとそれを理解しないといけない。嫌味を言われないように生きていかないといけないと思うようになった。
ほんとうは世界は優しい。
わたしは長らく、あるタイプの世界(複数ある)には、受け入れられないと思っていた。
だから自分で線を引いて、その世界と関わらないように自分を閉じていた。それは、いつの間にか自動的になされるようになっていた。
そんな感じだから、世界が開かれていることに長らく気づかなかった。
世界は優しくないと思いこんでいたから、世界の持つ優しさを見落としていた。
それどころか、世界は敵だと決め込んで常に戦闘態勢で臨んでいた。
そうして、世界の側もわたしのことを敵だと思うようになったり、無関心という意味でのほったらかし、あるいは優しさからの「そっとしておきましょう」的なほったらかしをしてくれるようになったりする。
りんごは素直にりんごだと思えばいいのに。みかんかもしれないなんて思うから、おかしな事態になる。
りんごだと思って食べたら中身はみかんだった。そんなことがあれば、がっかりするかもしれない。
そのがっかりを避けるために、「見かけはりんごだけど、もしかしたらみかんかもしれない」という、いらん覚悟をする。
がっかりしたくない。世界から裏切られたくない。
だから、先に自分が覚悟しておく。「べつに平気だもーん」と言えるように準備しておく。
でも、そんなことしていると、たいせつなものを見逃してしまう。世界の優しさに気づかなかったように。
そうやって世界を信じていない自分は、自分のことも信じていないようだった。
世界に裏切られても大丈夫な自分を信じていない。
心地よく世界を見ることを自分にさせていない。
でもね、自分(と話しかける)。
世界は意外と優しいみたいだよ。優しいと感じられないこともあるかもしれないけれど、それは思い込みかもしれないよ。
先に「信じない」でいるのと、先に「信じて」いるのとどっちが楽しい?
どうせ世界から裏切られる(とあなたが思っている)のなら、楽しい方を一度でも味わっておいたほうがおトクだよね。
哲学的探究は別として、りんごならば素直にりんごだと思えばいいんじゃないのかな。
たとえみかんだったとしても、それすらも「すっぱ!」とか言いながら、味わえば、それもまた楽し。