自己嫌悪というマグマ ―前編
このタイミングでこの本が読めてよかったなと思う。
自己嫌悪は結果でなくて、原因。しかも「諸悪の根源」です。
今年の夏が始まろうかという頃だったと思う。
何かきっかけがあったわけではないが(あったのかもしれないけれど、覚えていない)、自分が自分のことを何もできない人間であると思っていて、自分をいかに信じていないかということに気づいて、がーんとなったことがあった。
がーんとはなりつつも、未知との遭遇という感じはまったくなくて、知っていたけど知らなかったという感じだった。
自分でも気づかないうちに、その自己嫌悪とか自己不信とかをぎゅうぎゅうと心の奥底に押し込めていたらしい。
だが、溜まったマグマがついにこらえきれず、ボバーンと噴出してしまった。
「ほどほどでいいやと思っているように見えるよ」
「可能性がもっとあるかもしれないのに、自分であきらめて適当なところで線を引いてるでしょう」
何年か前に、複数の友人からそう言われたことがあった。まったく身に覚えがなかったので、そのときはドキリともしなかった。
ほどほどのところで止めているとか、あきらめているという感覚を味わうほど、何かをやろうとはしていなかった。
「自分にはこのくらい」というものを用意して、取り組んで、何事かをやった気になっていただけだった。それなりにチャレンジングだと思えたものもあった。だから、自分では「ほどほど」とは思っていなかった。
でも、今思えばそんなのは、あくまでも自分の力の上限を超えないでできる程度のことで、たかが知れいていた。
自分の力を小さく見積もることが体に染み付いてしまっているから、失敗しないようなレベルのこと、つまりほどほどのことしかやらなかった。
やりたいことを成し遂げていく人たちを見ても、すごいなー、頑張ってるなーとは思いこそすれ、うらやましいとか、あれくらいのことに挑戦してみたいなどとは思わなかった。
素直に「どうせわたしには無理」と思えればまだよかったのかもしれない。
でも、自己嫌悪に蓋をして感覚が麻痺してしまっていたから、無理だとか劣等感だとかを感じることもなく、やりたいことに突き進んでいる人たちのことを、やりたいことが明確でいいなーなどと思っていた。
やりたいことが見つからなくて、果たしてこれでいいのだろうかと迷っている時期はあった。
会社での仕事に意味が見出だせなくなり、希望退職制度に乗っかって辞めたはいいものの、自分はいったい何をしたいんだろう? 退職してから1年くらいは、ずっともんもんとしていた。
新卒での就職に失敗したわたしは、とにかく同年代の人たちに追いつこうと、必死だった。周回遅れをはやく挽回してみんなに追いつき、堂々としたかった。
そして気がついたら、ほぼ望みに近い「立場」を手に入れていた。エリートに比べたらナンボのものでもないけれど、ひたすら前だけを見て走っていたら、自分なりの(ここでも“ほどほど”にしている)目標を達成していた。
周回遅れを挽回した上、何人かは追い越すこともできて、やっと一人前になれてほっとした。
目標を達成したら、もうあとはゆっくり走ればいいと思っていた。誰にも恥ずかしくない、自分にとっても満足した人生を生きていけるはずだと。
だけど、目標を達成してしまえば、あとはどうということはなかった。うれしいのは手に入れた瞬間だけだった。
それに、思ったほど家族は賞賛してくれない。もっと一目置いてくれるのかと思ったのに。
もっと頑張らないとダメなんだ、もっと認められるように頑張ろうと、わたしは再び結構なハイペースで走り始めた。
このことは、自分のなかにある「自己嫌悪」を感じないようにするためだったのかもしれない。
つねに右肩あがりで拡大し続けなければならない、という「領土拡張主義」にふり回されるのは、人格がぶっ壊れた状態です。
わたしはぶっ壊れていたらしい。
ぶっ壊れたわたしに、あるとき強制終了がかかった。「がん」という肉体からの強制終了である。
これでやめときゃよかったのに、おバカなわたしは、これは強制終了なんかではなく単なる給水所だととらえてしまった。
遅れを挽回するために、病気が治り次第、またもや走り始めてしまった。
「みんなでおままごとしているみたい」
強制終了から復活して3年くらいたったときだった。仕事に対してすーっと冷めてしまった。
やってもやらなくてもいい仕事をいかにも大事そうに抱えて、自分の立場を確固としたものにしておきたい。会社の人たちのそんな思いが透けて見えてしまった。
いや、自分がそうだったのだ。他者を通してそれがわかった。
自分も含めみんながただのおままごとに必死になっていることがわかったら、急速にやる気が失せていった。
仕事に意味がまったく見出だせなくなったわたしは、走る速度を落とした。ちんたらちんたら歩くようになった。なんなら3歩進んで2歩下がっていたかもしれない。
自分が走ることをやめたら、実は周りも歩いていたらしいことに気づいた。
なんだ。みんな走っているふりをしていただけか。
それもよく考えれば当たり前だ。走っているふりをしなければ、自分の立場が守れないとみんなが思い込んでいるからだ。本当に走っている人は、おそらくこんなところにはいないだろう。
「立場」や「役」に固執するのも、「自己嫌悪」を埋めるため。
自分の仕事を守るのに必死な人も、気が狂ったかのようにひたすら前に向かって全力で走り続ける人も、わたしと同じように自分に自信がなかったんだと今ならわかる。
大事に抱えているものがなくなったら、手持ち無沙汰で落ち着かない。定めていたゴールがなくなっても、ここでじっと立ち止まっていることは難しい。
子どもがぬいぐるみを手放せないのと同じ。子どもがじっと座っていられないのと同じ。
長い間、自分という身一つで生きてこなかった人から拠り所を奪えば、たちまち自分が押しつぶされてしまいそうな感覚に陥るだろう。
みんな無意識にそのことがわかっている。でも、マグマが噴出しないように、一生懸命に上から蓋をしているのだ。
そこまでわかっていながら、さらにはわたしにもやってみたいことがようやく見つかったというのに、わたしはこの夏、またもや妙なことをしてしまったのだ。
眠くなってきたので、次回へ続く。
引用:安冨歩 『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず、自由に生きる技術』大和出版(2016)