韓国語は声調言語になったのか?
はじめに
話の前提として、まず二つ。
1.現代韓国語の多くの方言は、アクセントによって単語の意味が区別されることがないと言われてきた。日本語の共通語では、「雨」と「飴」はピッチ(高さ)で区別されるが、このようなことがないということだ。「現代韓国語の多くの方言」と書いたのは、中世の韓国語(いわゆる「中期朝鮮語」)や「雨」「飴」に似た特徴があったと言われており、また現代の慶尚道方言にもあるからだ。ともかく、ソウルの人々を含め、韓国の多くの人々の言葉には、日本語のアクセントに類するものはないと言われてきた。
2.韓国語の子音には、平音・激音・濃音という区別がある(ちなみに、「平音」「激音」「濃音」という用語は、韓国語学独自のものである)。韓国語の一般的な授業では、例えば「パ」の発音が、平音だと息はほどほど、激音では多めに、濃音は喉を緊張させ息はほとんど出さないようにして発音する、といった具合に教えられる。口元にティッシュを持ってきて、息でゆれるかどうかというのが、定番の練習方法だ。韓国語学習者にとって、発音上の難関の一つ。
この二つの韓国語の特徴が現代ではだいぶ変わってきている・・・ということを、この記事では書きたい。
平音・激音・濃音とはどのような音か
韓国語の平音・激音・濃音の特徴は、基本的に上に書いたとおりだ。息の多い・少ないで音を区別するような言語は韓国語にもたくさんあって、音声学では息を多く出す音を「有気音」、息を少なく出す音を「無気音」と呼ぶ。激音は典型的な有気音だ。平音は、無気音とみなすか、無気音と有気音の中間ぐらいとみなすか、微妙なところである。濃音は無気音だが、単なる無気音ではなく、喉の緊張を伴うというのが、かなり本質的な特徴だとみなされている。
この三つの音については、タイミングという観点から別の捉え方もできる。「パ」、つまり [pa] という発音は、[p] の発音で唇を閉じてから開き(開放し)、その後に母音 [a] を発音する。母音 [a] を発音する際には、喉の声帯が振動する。激音では、開放と声帯振動開始の間に、かなりタイムラグがある。このタイムラグの間に、息がたくさん出ているというわけだ。
このタイムラグを、音声学の用語で、VOT (Voice Onset Time) という。VOTという概念を提唱したリスカ―とアブラムソンは、様々な言語の子音のVOTを計測した(Lisker and Abramson 1964 [PDFへのリンク])。その中には、韓国語も含まれている。彼らの計測において、韓国語の平音・激音・濃音のVOTの計測値は次のようになっている。
平音:/p/ 18 /t/ 25 /k/ 47
激音:/ph/ 91 /th/ 94 /kh/ 126
濃音:/p*/ 7 /t*/ 11 /k*/ 19
つまり、激音はVOTが長く、濃音は短く、平音はその中間の値になっている。
声帯の動き
ところで、平音・激音・濃音を発音するとき、喉の動きはどうなっているのだろうか。音声学を学んだ人であれば知っていると思うが、ここで少し、喉(喉頭)や声帯の仕組みについて説明しておきたい。
喉頭には声帯という器官がある。声帯は、左右一対のひだで、開いたり閉じたりすることができる。先ほど [a] で声帯が振動すると書いたが、これはもっと正確にいえば、声帯をゆるく閉じつつ息を通過させることで、声帯が振動するというメカニズムになっている。一方、有気音では一般に、声帯を大きく開くことで、大量の息が流れると言われている。
参考までに、以下の動画(英語)は、喉頭(larynx)や声帯(vocal cords)の仕組みをグラフィカルに説明している。
さて、韓国語についても、ファイバースコープによって声帯を観察した研究がある(Kagaya 1974)。この研究によれば、激音では確かに声帯が積極的に開く(外転する)ことが確認されている。一方、濃音では声帯を閉じようとする(内転する)動きがあり、平音は積極的な動きがみられないという。
子音はピッチに影響する
上で声帯のことを書いたが、声帯は開いたり閉じたりすることで子音の区別をするだけでなく、もう一つ重要な機能をになっている。それは、ピッチ(高さ)を調節できるということだ。
人の音声器官を楽器に例えれば、声帯は弦楽器の弦にあたる。例えばバイオリンの弦を強く張った状態で弓で弾けば、弦の振動が速くなる。そして、弦が速く振動するとき、それによって生み出される音は高く聞こえる。弦を緩めれば、その反対に、弦の振動が遅くなり、音が低くなる。
ここで複雑なことが起きる。私たちは、子音の特徴、例えば韓国語の平音・激音・濃音の違いや、日本語の清音と濁音(例えば「タ」と「ダ」)の違いを生み出すために、声帯やその周辺(喉頭)をコントロールしている。一方で、音に高低をつけるためにも、喉頭をコントロールしている。そうすると、もともと子音の発音のためにしたことが、音の高低に影響を及ぼしてしまうことがある。例えば、濁音(音声学的に言えば有声音)の直後でピッチが低くなってしまったり、ということがある。ただし一般には、このような子音がピッチに及ぼす影響はとても小さい。だから、私たちが「タ」と「ダ」を聞いて、「なんか、ダの出だしって声が低いよね~」とか感じることは、なかなかない。
韓国語に関しても、同じことがある。平音の直後のピッチは低めになり、激音や濃音の直後はピッチが高めになる。日本語の「タ」と「ダ」のケースと同様、これは小さな違いだ。
・・・いや、小さな違い「だった」、と過去形で言うべきかもしれない。それが、ここからの先の話だ。
二つの画期的な研究
1990年代以降、いくつかの興味深い研究が発表された。
まず取り上げたいのは、チョン・ソナ(전선아, Sun-Ah Jun)という言語学者が1993年にオハイオ州立大学に提出した博士論文、およびそれを改訂した1996年出版の研究書だ(Jun 1993, 1996)。この研究によれば、韓国語では、句(この研究でアクセント句、accentual phraseと呼ばれる単位)の初頭が激音・濃音・s(ㅅ)・h(ㅎ)のときはピッチが高く始まり、それ以外のときは低く始まるという。(ちなみに、この指摘をはじめとして、この研究では韓国語のイントネーションに関していくつかの重要な指摘をしていて、後の韓国語イントネーション研究に大きな影響を与えたのだが、その話はまた別の機会に書きたい。)
激音・濃音・s・hで始まる単語、フレーズのピッチが高いというのは、日本語を母語とする韓国語学習者にとっては、確かにその通りだと思う人は多いかもしれない。実際、計測してみると、これらの子音で始まる場合とそれ以外とを比べると、ピッチの違いは顕著である。しかし、ここで疑問が生じる。ではなぜ、そのような重要な話が、1990年代になって始めて出てきたのだろうか?(なお、正確にいえば、それ以前にも指摘が無かったわけではないが、韓国語研究の世界であまり議論されてこなかったのは確かである。)
つづいて取り上げたい研究は、アメリカの言語学者シルバ(David Silva)によるものだ。2002年に発表された研究では、ソウル方言の平音・激音・濃音のVOTについて、先行研究の計測値を比較した(Silva 2002)。その結果、話者の年代が下がるにつれて、平音と激音のVOTの分布に重なりが生じるようになってきていることが明らかになった。2006年の研究では独自のデータが用いられたが、やはり同様の傾向がみられた(Silva 2006)。具体的には、1960年代後半生まれの世代から、平音と激音のVOTの分布に重なりがみられている。つまり、このあたりの世代以降の話者においては、平音と激音がVOTで区別しにくくなっているということだ。
さて、チョン・ソナの研究とシルバの研究には、関係がある。どういう関係があるのだろうか。
「トーン発生」
ここから先の話をする上で、いったん韓国語から離れ、tonogenesisという言語学の用語について紹介しておきたい。tonogensisは、「声調発生」とか「トーン発生」と訳される。
上に書いたように、子音を発音する際に行われる喉頭の調節が、ピッチに影響を及ぼすことがある。この影響はふつうは小さいものなのだが、歴史的な言語の変化の過程で大きくなることがある。その一方で、本来の子音の特徴が失われ、ピッチの特徴のみが残ることで、声調やアクセントのようなものが生じることがあると言われている。これが「トーン発生」である。
例えば、フランスの言語学者オードリクール(A.G. Haudricourt)によれば、ベトナム語はかつては声調言語ではなかったが、6世紀ごろに音節末の子音の有無が2種類の声調にかわり、音節の初頭の有声音・無声音の区別も声調におきかわることで、12世紀までに6種類の声調を持つに至ったという説を主張している。つまり、ベトナム語においては、過去のある時期に声調が発生したというわけだ。(このオードリクールの説については、『言語学大辞典 第1巻』の「ヴェトナム語」の項目で詳しく述べられている。)
韓国語は変化している
先に紹介したチョン・ソナの研究とシルバの研究は、韓国語にトーン発生が生じていることを思い起こさせる。つまり、韓国語における平音と激音のピッチの違いは最初は小さいものだった。一方で、平音と激音の主張な違いはVOTにあった。それが、VOTの差異がどんどん縮まる一方で、ピッチの違いが拡大していったというものだ。実際、シルバの研究はトーン発生の観点からなされたもので、韓国語(ソウル方言)において、トーン発生は終わりに違い段階にあると述べている。ただし、シルバ自身の研究では、ピッチの世代差は確認できていない。
シルバの研究以降、多くの研究者が、このソウル方言で進行しつつある変化に注目した。例えば、カン・ユンジョン(Yoonjung Kang)の研究では、大規模コーパスを用いた研究がなされた。そして、ピッチについても確かに世代差が確認された。つまり、世代が下がるほど、平音と激音のピッチの違いが拡大しているということだ(Kang 2014)。
チョン・ソナの研究以前に子音によるピッチの違いがあまり注目されてこなかったのは、昔はそれが小さな違いで、どの言語にもよく見られる、音声学的にありふれた現象だった、というのが一つの理由だろう。それが大きな違いとなり、トーン・アクセント・イントネーション研究の文脈の中で捉えられるようになったということなのだろう。
韓国語は声調言語になったのか?
ここで記事のタイトルに戻ると、では、韓国語(ソウル方言)は声調言語になったということだろうか?ベトナム語が声調言語になったように。
これは、「声調」をどう定義するかによる。英語のtoneは「声調」と訳されることがあるが、日本の言語学で「声調」というとき、中国語やベトナム語にみられるような、音節ごとにピッチの高さや変動が決まっているようなものを指すことが多い。韓国語の場合、単語の初頭が高いか低いかということなので、これとは少し性格が異なる。日本語の京阪方言では、単語によってピッチが高く始まる単語と低く始まる単語があるので、京阪方言のアクセントと似ているともいえる。あるいは、鹿児島方言では単語の最終音節が高いものと、後ろから2番目の音節が高くなるものがあるので、単語を単位として二通りのパターンがあるという点で、鹿児島方言のアクセントと似ているともいえる。なお、京阪方言や鹿児島方言のこのような特徴を「語声調」と呼ぶ研究者もいる(早田 1999)。つまり、ソウル方言に新たに生じたのが(広義)の声調なのか、アクセントなのか、あるいは語声調なのかは、定義次第といえる。
ところで、韓国語ソウル方言において、トーン発生は完了したのだろうか?そして、平音と激音の区別において、ピッチ以外の特徴は完全に失われてしまったのだろうか?これについては、近年のいろいろな研究を見る限り、若い世代のソウルの話者にとって、平音と激音のVOTの違いは、ほぼなくなっていると言ってよいだろう。ただし、平音と激音の違いは(この記事では取り上げなかったが)実はVOTとピッチだけではないので、それ以外の特徴がどうなっているかは、もう少し注意深くみる必要があるだろう。
さて、ではこのことを、韓国語学習者の立場で、あるいは韓国語教師の立場では、どう捉えればいいのだろう?平音と激音のVOTに違いがないということは、息の量にもおそらく違いがないということである。韓国語の教科書ではたいてい、激音は息を多く、平音はそれほど多くなく、というようなことが書かれているが、このような教え方はもうやめた方がいいのだろうか?
私も韓国語を教える立場にあるが、私は今のところ、息の量とピッチの違いと、両方教えるようにしている。平音と激音のVOTがほぼ同じというのは、ソウルの中年以降の話者の場合である。ソウルの年配の話者にとっては、VOT/息の量による違いがメインであるし、また、ソウル以外の話者においても(まだ研究は少ないが)VOT/息の量の違いがメインであるかもしれない。ただ、時代がたてば、中年層は高年層になり、ソウルの大部分の人にとって平音と激音の主たる違いがピッチということになるだろう。また、この特徴は、おそらくソウル以外の人々にも広がっていくだろう。そうなったときには、韓国語の発音の教え方も大きく変えなければならないのだろう。
関連文献
もっと専門的な情報を知りたい方のために。
韓国語の子音について、私自身は本格的に研究したことはないのだけど、研究の動向をレビューした文章をいくつか書いている。
宇都木昭(2009)「日本語と朝鮮語の破裂音― 音響音声学的研究の概観 ―」『北海道言語文化研究』7.
... 平音・激音・濃音についての研究の概観。
宇都木昭(2017)「朝鮮語ソウル方言における進行中のトーン変化―トーン発生と語彙拡散の観点から―」『音声研究』21(2)
... 韓国語の「トーン発生」など。
また、子音とは直接は関係ないけれど、韓国語のイントネーション(特にチョン・ソナの研究など)については、以下で紹介した。
宇都木(2007)「音響音声学からの接近」野間秀樹(編)『韓国語教育論講座 第1巻』くろしお出版.
ということで、詳しくはこれらの中で紹介されている各論文を読んでいただければと。