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3・11の津波は過去にも起きていたのか / 東大地震研究所×東大史料編纂所

東日本大震災の津波は平安時代の貞観津波の再来なのでしょうか。繰り返す南海トラフの地震はどこまでわかっているのでしょうか。このたび、東大地震研究所と東大史料編纂所の共同研究の成果として『歴史のなかの地震・噴火』を刊行いたします。過去の大地震や火山噴火の実態に、地震学と歴史学の連携により迫ります。ここでは、本書の一部(1-2節)をお読みいただけます。
文・加納靖之、杉森玲子、榎原雅治、佐竹健治

869年の東北大地震

2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が起きると、その直後から、この地震と似た地震が9世紀にあったのではないか、と指摘する声が上がった。その地震が貞観11年(869)に起きた、貞観地震と呼ばれる地震である。

この地震について記した史料が『日本三代実録』貞観11年5月26日条である。原文は漢文であるが、どのようなことが書かれているのか、読み下しで紹介しておこう。

廿六日、癸未、陸奥国、地大いに震動す。流光昼の如く隠映す。頃之(しばらくあって)、人民叫呼し、伏して起つを能(あた)わず。或は屋仆(たお)れ圧死す。或は地裂け埋(うずも)れ殪(し)す。馬牛駭(おどろ)き奔(はし)しり、或は相昇り踏む。城郭・倉庫・門・櫓・墻(かき)・壁、頽(くず)れ落ち顛覆(てんぷく)して、その数を知らず。海口は哮吼して、声雷霆(らいてい)に似たり。驚涛(きょうとう)涌(わ)き、潮泝洄(さかのぼ)り、漲長して、忽(たちま)ち城下に至る。海を去ること数十百里。浩々(こうこう)として其の涯涘(がいし)を弁ぜず。原野、道路、惣(すべ)て滄溟(うみ)と為る。船に乗るに遑(いとま)あらず。山に登るに及び難し。溺死する者千を計う。資産、苗稼(びょうか)、殆んど孑遺(のこるもの)なし。

ここには陸奥国司のいる国庁(現在の宮城県多賀城市)周辺の被害状況が書かれている。大地の揺れと地割れ、国庁の建物の倒壊、そして津波によって国庁の周囲まで水没したこと、建物や農地もすべて失われたことが記されている。こうした状況は、確かに2011年3月11日に起きた東日本大震災での仙台付近の状況とよく似ているといえよう。

さらに、この津波のことは『百人一首』の和歌にも歌いこまれている。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは

清少納言の父として知られる清原元輔の作歌で、もとは『後拾遺和歌集』恋四に収められたものである。元輔の活動年代から、作られたのは10世紀後半と考えられるので、地震のほぼ百年後の歌ということになる。歌の意味は「約束しましたよね、お互いに袖の涙を絞りながら、末の松山を波が越すようなことはないと」ということになろう。下の句の「末の松山を波が越す」とは恋人同士の別離、つまりあってはならないことの喩えと考えることができよう。

この歌には本歌があり、『古今和歌集』の東歌・陸奥歌に収められている。

君をおきて あだし心を わがもたば 末の松山 波もこえなむ

こちらの方がわかりやすい。「あなたをほうって私が浮気心をもつようなことがあったなら、末の松山を波が越えることでしょう」という意味であろうから、ここでも「末の松山を波が越す」は決して起こらないことの喩えと見ることができる。

このように「末の松山を波が越す」とはありえないこと、あってはならないことの喩えと考えられるのであるが、喩えとしても奇妙な喩えである。山を波が越すとは一体どういう光景なのか? どうしてこんな発想が生まれ得たのか?

これこそ貞観地震の津波の経験を踏まえた比喩表現なのではないか、ということに気が付いたのは国文学者の河野幸夫である。『古今和歌集』の成立は延喜5年(905)だから、この歌は9世紀後半頃に詠まれた歌であり、そして東歌・陸奥歌に収められているのだから、東国か陸奥でつくられた歌であろう。したがってこの歌の作者が貞観地震を経験していた可能性は大きい、という興味深い説である(河野、2007)。

実は、多賀城近くに、ここが「末の松山」だとされている場所がある。標高11mほどの小さな高台であるが、2011年の津波でも水没を免れたとのことである。実際にその高台が9世紀に「末の松山」と呼ばれた場所であるかどうかはもはや確認しようがないが、類似した光景は当時の仙台平野にはいくつもあっただろう。「末の松山」の歌が、そうした光景を目にした経験を踏まえて詠まれたものである可能性は高いだろう。

なお、地震から5カ月後の10月13日、朝廷は陸奥国に災害の復興のための方策を指示している。その中には、「民」(和人)も「夷(エゾ)」も区別なく救え、被害の甚だしい者の税は免ぜよ、障碍者、寡婦、独居者など自立の困難な者は特に手厚く保護せよ、といったことが述べられている。平安前期の段階で、現代にも通用する救済の思想が、為政者によって語られていることは注目しておいていいだろう。

地層に残された古代の津波堆積物

貞観地震については、歴史記録に加えて、津波の物的証拠が残されている。津波が内陸まで浸水すると、海や海岸から砂が運ばれ、内陸で堆積する。このように津波によって運ばれて堆積した地層を津波堆積物と呼ぶ。その化学組成や含まれる微生物化石の分析から、堆積物の砂の起源(海か、河川などか)を知ることができる。

津波堆積物の分布からこの津波によって浸水した地域がどのくらい広がっていたかが推定されている。それを東北地方太平洋沖地震による津波浸水域と比較したのが図1-9である。これを見れば両者がよく似ていることがわかるだろう。貞観津波による浸水域の方が、若干東西の幅が狭く見えるかもしれないが、それは千年の間に、自然の堆積や人為的な開発によって陸が海側に広がったためである。

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この二つの浸水域の類似は、東北地方太平洋沖地震のような地震が、長い周期をもって繰り返し発生すると考えられていることの一つの根拠である。実は、東日本大震災前年の2010年頃までに、石巻平野および仙台平野における津波堆積物分布から、さまざまな断層モデルについて、貞観地震当時の地形モデルを用いた津波シミュレーションが行われ、津波堆積物分布を説明できる断層モデルが検討されていた。その結果、断層幅が100km程度、Mwは8.4程度以上の断層モデルが2010年までに提案されていた(図1-9下)。

ところで、地層から発見された砂の層が貞観津波による堆積だとなぜ判断できるのだろう。当然だが砂に年代が書かれているわけではない。堆積物に土器のような考古遺物があれば、その特徴から、また植物遺体があれば放射性炭素を用いて年代を推定する方法はあるが、推定できるのは100年程度の幅のある年代である。

ところが、貞観地震の津波堆積物については、「幸運」な手がかりが残されている。そこで重要となるのが砂の層の上下の観察である。図1-10は宮城県岩沼市の高大瀬遺跡で見つかった地層の断面である。一番上には2011年の津波による砂の分厚い層がある。色が異なるが、ずっと下方にも分厚い砂の層が見える。そしてそのすぐ上に白い薄い火山灰の層がある。この火山灰層の正体をつかむことが、地層に残る津波堆積物の年代を確定するための鍵である。

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高大瀬遺跡で見つかった白い火山灰層とよく似た地層は東北各地で見つかっている。青森、秋田、岩手、宮城の各県には微量元素組成や鉱物組成の近い珪長質の火山灰が分布しているのである。化学的組成が同じということは噴出物の供給源が同じであることを意味しているが、この火山灰層が最も分厚く堆積しているのは十和田湖周辺である。その厚さは数mに及び、火砕流堆積層であると考えられている。つまり高大瀬遺跡で津波堆積物のすぐ上に見つかった火山灰層は十和田噴火の噴出物なのである。

ではそれはいつの時代の噴火だろうか。秋田県の考古遺跡では、白い火山灰層の中から9世紀後半から10世紀前半の瓦や土器などの遺物が見つかっている。これによってこの火山灰層のおよその年代を決定することができる。さらに『扶桑略記』(新訂増補国史大系)という平安末期に編纂された、仏教を中心とした日本史を記した書物の延喜15年(915)条に次のような記述がある。

五日(七月)、甲子、卯時、日暉(ひかり)なし。その貎(かお)月に似たり。時の人これを奇(あや)しむ。
十三日、出羽国、雨灰の高さ二寸、諸郷の農桑枯れ損ずるの由を言上す。

わずかな記事であるが、これが十和田噴火のことであろうと考えられている。秋田県南部や宮城県北部で実際に見つかっている火山灰層の厚さは5~6cmで、「雨灰の高さ二寸」という史料の記述と一致している。この史料によって、十和田噴火の起きた年は延喜15年、つまり東北各地の地層で見つかる白い火山灰層は西暦915年と特定できるのである。

各地で見つかっている火山灰層の厚さから推定されるこの噴出物の総量は途方もない。どのくらい途方もないかは表1-1のとおりである。これは文献史料で知られる9世紀以後の大きな火山噴火での噴出物の推定総量を示したものであるが、915年の十和田噴火の噴出量は、近代の大きな噴火として知られる明治の磐梯山噴火や大正の桜島噴火の噴出量をはるかにしのぐ。「日本史上最大級の噴火」といっていいだろう。

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現在の十和田湖は静かで美しい姿であるが、湖の一画には半島状になった火口の痕跡があり、ここがこの白い火山灰の噴出源であると考えられている。わずか千年前、現在の姿からは想像もできないような大噴火がここで発生していたのである。

さて、太平洋側の地層から見つかる分厚い津波堆積物(図1-10)は、この915年の十和田火山灰層のすぐ下から見つかっている。915年の少し前に起きた東北地方の巨大津波は何か? それが文献史料に記された貞観地震による津波であることはまちがいないだろう。

このように、津波堆積物、火山灰、文献、考古遺物などの調査結果の総合によって、2011年3月の大地震と巨大津波と類似したできごとが、869年に起きていたことが証明されたのである。

なお、9世紀という時代には当然東北地方では人々が生活していた。彼らが甚大な被害を受けただろうことは容易に想像できるが、実際に秋田県北部の米代川流域では、厚さ2mもの火山泥に埋没した家屋の跡も検出されている。住居址の発掘状況や土器の形態変化から、噴火後、十和田湖周辺では大規模な人口移動があったと考えられている(丸山、2020)。

〈文献〉
岩沼市教育委員会(2016)宮城県岩沼市文化財調査報告書第16集「高大瀬遺跡・にら遺跡」.
河野幸夫(2007)歌枕『末の松山』と海底考古学.国文学,12月臨時増刊号,学燈社.
佐竹健治ほか(2008)石巻・仙台平野における869年貞観津波の数値シミュレーション.活断層・古地震研究報告, 8, 71-89.
宍倉正展ほか(2010)平安の人々が見た巨大津波を再現する―西暦869年貞観津波.AFERC NEWS, 16, 1-10.
丸山浩治(2020)『火山灰考古学と古代社会―十和田噴火と蝦夷・律令国家』雄山閣.

文・加納靖之、杉森玲子、榎原雅治、佐竹健治


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歴史のなかの地震・噴火  過去がしめす未来
加納靖之、杉森玲子、榎原雅治、佐竹健治 著
ISBN978-4-13-063716-9 
発売日:2021年03月 判型:四六 ページ数:260頁

【内容紹介】
数百年から数千年の間隔で発生する過去の大地震や火山噴火の実態に,歴史学と地震学の連携により迫る.東日本大震災の津波は平安時代の貞観津波の再来なのか,繰り返す南海トラフの地震はどこまでわかっているのか.歴史から将来の災害予測につなげる文理融合のアプローチを紹介する.▶東京大学出版会創立70周年記念出版

【主要目次】
はじめに――過去の地震・噴火を読み解く
1章 東北の地震
1-1 東日本大震災の地震と津波
1-2 平安前期の火山噴火と地震
1-3 三陸地方の歴史地震
2章 南海トラフの地震
2-1 南海トラフの巨大地震―その繰り返しの歴史を概観する
2-2 古代・中世の南海トラフの地震
2-3 宝永の地震と富士山噴火
2-4 安政の地震
2-5 地震発生の長期予測と被害予測
3章 連動する内陸地震
3-1 熊本地震と兵庫県南部地震
3-2 天正地震
3-3 文禄畿内地震
3-4 文禄豊後地震
4章 首都圏の地震
4-1 関東地方の地震のタイプと大正関東地震
4-2 中世の相模トラフの地震
4-3 元禄関東地震
4-4 安政江戸地震
4-5 関東地震の繰り返しと長期評価
5章 歴史地震研究の歩みとこれから

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