『くまの根 : 隈研吾・東大最終講義 10の対話』あとがき
2019年から2020年に東京大学安田講堂でおこなわれた隈研吾氏の最終連続講義では、各界第一線で活躍する協働者・恩師・友人ら22人による,知られざるエピソードや影響関係が語られ,建築家・隈研吾の創作のルーツが明らかにされています.最終講義を書籍化した『くまの根』から「あとがき」をお読みいただけます。
10回の対話は、2つの時代をまたいだ。対談前から「2つの時代」をテーマにしようということは考えていて、「工業社会と脱工業社会」という2つの対極的時代のなかで、建築はどう変わるのか、建築家はどう変わるのかについて話し合おうというフレームワークであった。2つの時代のハザマを生きた隈研吾という建築家を通じて、2つの時代をあぶりだす企画であった。
しかし、現実は、時として予測を超えた過激さを呈する。対話シリーズの中途で新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が発生し、最終回はオンラインで発信というかたちをとり、文字通りに対話は2つの時代をまたぐことになった。ここでいう二つの時代とは、コロナ前、コロナ後という2つの時代である。それは、当初考えていた工業社会、脱工業社会という区分よりも、もっと大きな区分であり、もっと本質的な時代区分であるように感じられる。人類は森に住んでいた時代から、ひたすら集中と都市化を目指して、コロナという折り返し点に向かって、坂道をのぼり続け、いま分散へ、自然へと向かって、新しい下りの坂道を降り始めたのではないか。それが、現在の僕の実感である。工業社会、脱工業社会という区分は、コロナ前、コロナ後という、大きな時代区分のミニチュアのようにも見える。恐ろしく長い射程を有する2つの時代の折り返し点に居合わせることができただけで、僕はつくづく建築家として恵まれていたと感じ、そんな折り返し点をまたいで行われた最終講義も、つくづく不思議なめぐりあわせと言わなければならないであろう。
時代の折り返し点についての議論は、このあとがきで語りつくせるものではないが、時代の変わり目に、アカデミアが、そして東京大学がどんな役割を果たせるかについて、少しだけ考えてみたい。
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「世界と日本」について論じた第九回で、ボトンド・ボグナールは、中心対周縁という、ある意味で懐かしい議論を再提示した。それは東京大学の建築学科での最終講義なら、どうしても提起したくなるテーマである。そこで引き合いに出されたのは、丹下健三と村野藤吾という2人の建築家であった。1964年の第一回東京オリンピックの主会場のひとつとなった国立代々木競技場を設計した、東京大学教授丹下健三と、2020年に予定されていた第二回東京オリンピックの主会場、国立競技場の設計に携わった東京大学教授隈研吾を、ボグナールは対極的な存在、対極な作風と整理した。ボグナールによれば、隈は丹下のライバルであった村野藤吾の現代版であった。丹下が東京大学出身であり、公共建築を中心として活躍したのに対し、村野は早稲田大学出身で民間がメインのクライアントであり、丹下的なる中心的なもの、モダニズム的なるものに対してのアンチテーゼが村野であったと、ボグナーは整理する。では、2020年の隈のどこがどのように村野的であり、なぜ村野的になったのか。
ボグナールは、中心というものが、すでに消滅し、中心対周縁という対比構造自体、すでに存在しない可能性をほのめかした。僕はそれに半分だけ同意する。コンクリートと鉄という素材を駆使するのが「中心」であり、木や自然素材を用いるのが「周縁」であるという時代から、すでに遠いところに僕らは来ている。木を使うことで地球温暖化を止めようというのは、先進国政府のほとんどが推し進める、「中心」の政策である。
モダンデザイン自体の定義は曖昧化し、拡散してしまった。デザインにおいて、中心と周縁を議論すること自体が意味がないように思え、その意味で僕はボグナール論に同意できる。
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しかし同時に、第9回の回想のなかで述べたように、東京大学の建築学科という場所自体に、反中心的な遺伝子が潜んでいると、僕は感じている。とくに丹下とともに国立競技場を設計とした構造家坪井善勝が所属した東京大学生産技術研究所には、その遺伝子が根づいている。
生産技術研究所は、戦時下の1942年に、軍需産業を支える実務型の技術者を養成するため、外部から招いた教員を中心にして組織された、第二工学部をその前身とする。1949年に生産技術研究所へと改組されたが、そもそもの、実社会との交流に基づく実務型の教育方針は維持され、「中心」「正統」としての本郷の工学部に対するアンチテーゼ、批判者としての役割を保ち続けた。出身者の顔ぶれ、彼らが日本で果たした役割を見ると、その反中心的性格が浮き彫りになる。その場所が坪井善勝のようなユニークなエンジニアを生んだのである。
僕が師事し、大学院時代に学び、ともにサハラの調査旅行をした原広司も、その生産技術研究所の教員であり、原の研究室が行っていた辺境の集落調査は、まさに「反中心的」「反正統的」な研究テーマであった。当時、その生産技術研究所においてすら、辺境の集落調査は異端的で、非学術的で不真面目な研究であると見なされていて、原はいつも「風当たりが強くて、しんどい」と、学生相手に愚痴をこぼしていたのである。
その原が師事し、僕自身も卒業論文の指導を受けたのが、「コンクリートから木造へ」の第3回にお招きした内田祥哉である。内田祥哉は、「中心」であるはずの本郷の教員ではあったが、僕が内田研究室で卒業論文を書いたのは、内田祥哉のなかに、「反中心」的な批判精神を見つけたからであった。
内田祥哉の父親は、佐野利器とともに、ラーメン構造至上主義を推進し、東京大学の教授であっただけではなく、総長を務め(1943-45)、本郷キャンパスのほとんどの建物を「内田ゴシック」と呼ばれた独特の様式で設計した内田祥三である。この「中心」そのものといっていい父親を持ち、自身も本郷で教えながら、内田祥哉本人には、独特のリベラルな空気感が漂っていた。そのベースにあるのは、丹下健三に対する対抗心であったと、僕は感じた。丹下は、1949年の広島平和記念公園及び記念館のコンペでの一等当選以来、戦後モダニズムの不動のエースとして、戦後の日本建築界の先頭を走り続けた。そのダイナミックで象徴的デザインは、他の建築家の追随を許さないものであった。
一方、内田祥哉は、一人のヒロイックで特権的な建築による、ヒロイックな建築の対極をめざしていた。みんながデザインに参加でき、みんながつくりあげていく、開かれた民主的な建築システムの構築が、内田祥哉の目標だった。丹下の根に、佐野、内田祥三がリードするラーメン構造至上主義に対する批判があったように、内田祥哉の根にも、丹下がリードするヒロイックなモダニズムに対する、強烈な批判が息づいていたのである。その「反中心的」衝動は、まず内田をプレハブ建築の研究に向かわせ、日本のプレハブ住宅の基礎が、内田研究室でつくられた。それが一段落とすると、日本の在来木造こそが、何よりも開かれた民主的建築システムであったことを内田は再発見して、在来木造復活に舵を切ったのである。
原広司は当時、意匠系教育の中心であった丹下研究室に進まずに、内田研究室に進み、生産技術研究所で教え始めてから、集落の研究という、丹下のヒロイズムとは真逆の方向に進んだ。根っこにあるのも、この内田遺伝子である。僕もまた、その遺伝子に導かれて、内田研究室で卒業論文を書き、原研究室でアフリカの集落をテーマにして修士論文を書いたのである。さらに僕がデザインに携わった国立競技場の国産材小径木を多用したデザインも、内田祥哉が反丹下、反ヒロイズムをめざして研究を重ねてきた、日本の在来木造の小径木主義と深くつながっている。国立競技場のような「中心」においてさえ、僕はコンクリートの対極ともいえる、庶民的な小径木を貫き通したのである。
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ではなぜ東京大学建築学科では「反中心」的遺伝子が、生き続け、更新され続けたのだろうか。後にいうヒッピーのようなお雇い外国人ジョサイア・コンドルが最初の種子を蒔いたからだけでは説明することのできない構造的理由が存在する。
ひとつは、建築学科という存在と、東京大学という国家中心的機関との間に生じるダイナミズムである。
明治時代の東京大学が富国強兵の一翼を担ったのは言うまでもないが、その後も国家を担う中心的人材の育成だけが、東京大学に期待されていたわけではない。建築学科は、たとえば、法学部、経済学部、他の工学部のように、国家のために貢献し、お役に立てる学問だろうか。建設する技術や構造設計ならば、確かに貢献しているようにも感じられる。しかし、建築意匠の部分、すなわちデザインの部分の教育が、国家に貢献しているかとなると、悪い実例や反証をたちまち挙げることができる。そもそもデザインやアートのような、自由を重視する領域、自由こそが価値である領域と、国の中心的人材の養成という目標との間に矛盾があった。その矛盾、捻じれによって、建築学科のなかに、「反中心」的遺伝子が生まれ、育った。
そしてこの捻じれは、そもそも東京大学のものだけとも思えない。日本のほとんどの大学で、そして世界の多くの大学で、建築学科は工学部のなかの一領域として出発した。工学というものの持つ性格と、建築デザインという領域が有する性格が、根っこのところで矛盾し、捻じれていた。僕は世界の様々な建築学科で教えたり、講演したりしてきたが、どの建築学科も、一様に「反中心的」捻じれを共有しているのを肌で感じた。
さらに、建築学科というものは、その自由さにおいて、大学とか国家といった制度的なるものと対立しているだけではなく、時間に対する意識、いわば歴史観において、制度的なるものに対立していると、僕は感じる。
コンドルと明治政府との対立の基本的な原因も、時間に対する意識の差にあった。明治政府は西欧で主流であった古代ギリシア由来の古典主義様式を用いて都市を飾り立てることが、日本を素早く西欧化するためには必要であると考えていた。しかしコンドルは、そのようなインスタントの西欧化には疑問を持ち、日本らしい様式を探求することが、長いタイムスパンで見たときに、日本のためになると考えたのである。
制度的なるものは、往々にして、短期的な利益を優先し、短い時間軸を前提として、様々な決定を行っていく。制度というものを成立させているものが、基本的には短期的な確認、更新システムだからである。国家成立の基盤は、選挙という短期的更新システムであるし、株式会社を支えているのも、一会計年度という短い時間のなかでの業績を評価する、株主総会システムである。そのように、国家にしろ、企業にしろ、あらゆる制度的なるものは、短いカレンダーを気にして、とても短い時間の上をびくびくと生きている。一方、建築のデザインをする人間の多くは、コンドルが、過去に向かっても長く、未来に向かっても長い日本の歴史全体を考えながらデザインしていたように、もっと長い時間軸の上を生きている。建築は一度建ちあがったならば、それは好むと好まざるとにかかわらず、長い時間の審判を、じっとじっと待つしかないからである。建築というのは、制度ではなく、物そのものである。地球という恐ろしく長い時間に所属する、長く生き続ける実在である。
僕も自分の事務所を始めた頃は、短い時間のことだけを考えて生きていた。できあがった作品が、次の号の建築雑誌に載るのか載らないのか、仲間や友人からどう思われ、どう見られるかが、気になってしかたがなかった。事務所の経営が、次の月までまわるか、まわらないかも、もちろん心配だった。
しかし、歳をとってくると、長い時間のほうに、頭が向かうようになった。自分自身の一生というものすら、長い時間の軸のなかでは、ただの一瞬であると感じられてきたのである。自分の建築は自分よりもずっと長生きをすることを考えると、短い時間に属する人や制度が、建築の後方にどんどん後退して、消えていくように感じた。
長い時間について考えることは、制度的なる人や組織にとっても、けっして無駄ではない。長い時間をしっかりと見据えての解決は、短いぶつ切りになった時間で、更新され続けていく日常の課題に対しても、多くの示唆やヒントを与えてくれる。長い時間での解から逆算することは、短い時間に対しても、思わぬ解決の糸口を提供してくれるのである。
そう考えると、国家や大学という制度的なるもののなかに、別の時間軸に属する、建築という異物が存在することは、けっして無駄なことではない。建築はその自由ゆえに、制度的なるものに対してのアンチテーゼであるだけではなく、それが長い時間を生きているゆえに、制度的なるものに対してのアンチテーゼたりえる。サステイナビリティという概念は、本来、そのようなかたちで制度的なるものを批判する道具でなければならない。
せっかちな明治政府に対抗してコンドルが夢想した「日本らしい建築」や、丹下、内田祥哉、原が描き続けていた「反中心」的スタンスは、長い時間に対する感受性よって導かれ、突き動かされていたように、僕は感じる。
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長い時間感覚を、若い人に引き継いでいくことが、この最終講義の目標である。長い時間と比較したとき、一人の人間が世界にかかわれる時間は、驚くほどに短い。コロナ禍によって、さらに強く、その時間の短さを僕らは感じている。最終講義をする頃には、どの教授も同じことを感じるだろう。最終講義とは、その意味で、長い時間と短い時間とが出会う、貴重な場所である。
若い世代へと引き継ぐことによってのみ、人間はかろうじて、長い時間に少しだけかかわることができ、少しだけ、安心することができるのである。
2021年4月13日
隈研吾
(「本書あとがき」より)
※本書の著者の一人である内田祥哉先生が、2021年5月3日に逝去されました。ご生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。(編集部)
内容紹介
各界第一線で活躍する協働者・恩師・友人ら22人がユニークな隈研吾論を展開.隈を交えた鼎談では,知られざるエピソードや影響関係が語られ,建築家の隈研吾の創作のルーツが明らかにされる.2019年から2020年に東京大学安田講堂でおこなわれた東京大学最終連続講義「工業化社会の後にくるもの」を待望の書籍化.▶東京大学出版会創立70周年記念出版
主要目次
第1回 集落からはじまった
講演 隈研吾の原点となった集落調査(原広司)
鼎談 集落調査から学んだ仕事のリズム(原広司×セン・クアン×隈研吾)
回想 第三の途の可能性(隈研吾)
第2回 家族とコミュニティの未来
講演 苦節10年から「移ろう建築」へ(上野千鶴子)
鼎談 バブルの大きな授業料(上野千鶴子×三浦展×隈研吾)
回想 ボロさという方法(隈研吾)
第3回 コンクリートから木へ
講演 コンクリートから木造へ(内田祥哉)
講演 木造の終焉は近い(深尾精一)
鼎談 混構造的に木造を捉える自由を学ぶ(内田祥哉×深尾精一×隈研吾)
回想 「正義」と「傘」からの自由(隈研吾)
第4回 街づくりとクラフト
講演 デザインを通した隈研吾との協働(原研哉)
講演 一流と出会える地域をつくる(鈴木輝隆)
講演 紙を育て,人を育てる(小林康生)
講演 左官職人は景観をつくる(挾土秀平)
鼎談 奥深いモノの世界へ(原研哉×鈴木輝隆×小林康生×挾土秀平×隈研吾)
回想 聞き続けること(隈研吾)
第5回 緑と建築
講演 緑,造園,原点は「庭園」,「日本庭園」それから「ランドスケープ」(進士五十八)
講演 ランドスケープ・デザインの本質と建築(涌井史郎)
鼎談 環境の時代の庭園がもつ機能(進士五十八×涌井史郎×隈研吾)
回想 やさしい相棒(隈研吾)
第6回 アートと建築
講演 アートと建築,建築はアート(高階秀爾)
講演 未完成を完成のなかにつなげる建築家(伊東順二)
鼎談 アートの未来,建築の未来(高階秀爾×伊東順二×隈研吾)
回想 小さな地方,小さな場所(隈研吾)
第7回 歴史と継承
講演 歴史を継承して建築をつくる(藤森照信)
講演 昭和期における権力の館(御厨貴)
鼎談 建築と政治(藤森照信×御厨貴×隈研吾)
回想 弁証法から微分へ(隈研吾)
第8回 エンジニアリングの未来
講演 小さな建築から見えてくること(江尻憲泰)
講演 透明な構造デザインで生み出す(佐藤淳)
鼎談 二〇二〇年以降の構造(江尻憲泰×佐藤淳×隈研吾)
回想 LABOという場所(隈研吾)
第9回 世界と日本
講演 東京とニューヨークの交流(バリー・バーグドール)
講演 物質の詩学と物質性のイデオロギー(ボトンド・ボグナール)
鼎談 建築のグローバリゼーション(バリー・バーグドール×ボトンド・ボグナール×隈研吾)
回想 東大建築の批判的遺伝子(隈研吾)
第10回 コンピュテーショナルデザインとクラフト
講演 アルベルティによる設計と施工の分離(マリオ・カルポ)
講演 VR技術とは何か(廣瀬通孝)
鼎談 箱の外に出ること(マリオ・カルポ×廣瀬通孝×隈研吾)
回想 方法の発見(隈研吾)