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パレスチナ情勢とイスラエル国内事情――「分離(ハフラダ)」の先に安定はあるのか【後編】/鈴木啓之

深刻さを増すパレスチナ紛争を、どう理解すればよいのか。『蜂起<インティファーダ>――占領下のパレスチナ1967–1993』著者の鈴木啓之先生に広報誌「UP」にご寄稿いただいたコラムを公開いたします。第2弾は2021年におこった紛争をうけて書かれた585号(2021年7月)掲載のコラム後半です。2000年代以降、イスラエルの対パレスチナ政策はどのようなものだったのか、を解説します。(本コラム前半はこちらから)

「分離(ハフラダ)」は安定をもたらすのか?

イスラエルの対パレスチナ政策を示すときに、それぞれの時代に特徴的な名称がある。1967年の第三次中東戦争から数年間、イスラエルではモシェ・ダヤン国防相による強い提言もあって、占領地パレスチナ人の自由な移動を許可していた。この時代の政策を「橋開放政策」と呼ぶ。一方で、1980年代に入ると、イスラエルは占領地のパレスチナ人による組織活動に対して、取り締まりを強化していった。この頃の政策は、イツハク・ラビン国防相による発言から「鉄拳政策」と呼ばれている。では、現在のイスラエルによる対パレスチナ政策をあらわす言葉は何か――、それが「分離」(ハフラダ)である。提唱者がいるわけではないようだが、ローマ文字綴りでhafradaと検索すると、ヘブライ語の一般名詞「分離」の意味ではなく、イスラエルの対パレスチナ政策を示すものとして表示される。たしかに、現状をよくあらわす言葉だと思う。

2002年から、イスラエルは西岸地区の一部地域に深く入り込む形で「分離壁」の建設を始めた。イスラエル社会とパレスチナ社会のあいだには、比喩的な意味ではなく、物理的な意味で「壁」が立ちはだかっている。さらに、2005年になると、イスラエル政府は軍を動員して、ガザ地区内部にあったイスラエルの入植地を撤去した。この時に、ハマースの一部メンバーからは、抵抗運動による勝利であるとの声も挙がったが、それは現在の状況に照らせば早計な発言であったと言えるだろう。イスラエル市民が存在しなくなったガザ地区では、ごく少数の外国人――国連職員やジャーナリストなど――を除いて、イスラエル軍に攻撃を躊躇わせるものが存在しなくなったからだ。今回のものを含めて過去4回の攻撃が、この10年ほどに集中しているのは、決して偶然のことではない。

では、そのようにしてパレスチナ社会から距離をとることで、イスラエル社会は安定を手に入れたのだろうか。それには大きな疑問符を付けざるを得ない。特に「分離」の矛盾は、先ほど見たようなイスラエル国内、さらにはエルサレムのようにイスラエルが併合した地域で顕著にあらわれている。イスラエル国内についてはすでに見たので、ここではエルサレムの事例を考えてみたい。2002年からの分離壁の建設によって、周囲から孤立したパレスチナ人社会が作り出されたのが、エルサレムであった。一般的に「東エルサレム」と呼ばれている市域東部には、イスラエル国籍を持たない一方で居住が認められているおよそ35万人のパレスチナ人が暮らしている。1967年の第三次中東戦争でイスラエルによって占領された地域のうち、東エルサレムなど一部の地域は「分離」の結果、イスラエル国内にほとんど完全に取り込まれた形だ。東エルサレムには、このパレスチナ住民の他に、およそ20万人のイスラエル人――パレスチナ人の観点から述べれば、彼らは入植者に該当する――も生活している。

私がエルサレムでの在外研究中に強く感じたのは、この東エルサレムのパレスチナ人社会が抱える課題だった。詳細は『歴史学研究』(981号・2019年3月)での時評に譲るが、トランプ米政権による大使館開設(2018年5月14日)の前後に、東エルサレムでは大きな抗議活動が発生しなかった。同日に60名ちかくの犠牲者を出したガザ地区での抗議活動との著しい対比を、印象深くおぼえている。かつてパレスチナ人による政治運動の中心地であった東エルサレムでは、リーダーシップを発揮できる古参の指導者も、新たに求心力を示す若手リーダーもいないように感じられた。その代わり、東エルサレムでは、地域や家族を単位とした抗議活動が目立つようになった。2014年のガザ侵攻直前に、エルサレムのシュアファートという地区で、パレスチナ人の少年がイスラエル人の青年数人に誘拐され、その後に遺体となって発見されるという事件が起きた。この時には、少年の親戚らを中心に抗議活動が発生し、市を東西に結ぶトラムの運行が遮断され、二つの駅が破壊された。私が在外研究を始めた2018年4月の頃には、まだこれらの駅は破壊の痕跡を留め、乗車券の自販機もない状態であった。

この点に照らせば、今回の事態で最初に緊張が高まったシャイフ・ジャッラーフでの出来事も、「分離」の矛盾が表出した一例であると言えるかもしれない。2010年代に入ってから、ユダヤ系入植者団体によって、パレスチナ人が居住する家屋や建物に対して所有権を争う裁判が数多く起こされるようになった。イスラエル建国以前にユダヤ人が所有していたというのが、その理由である。そうした裁判の一つで、パレスチナ人の数家族に立ち退きを求める判断が示されたのは、今年(2021年)2月のことだった。その立ち退きの期限とされた5月上旬に向けて、緊張は徐々に高まっていたのだ。しかし、こうした裁判でパレスチナ人住民の立ち退きを要求しているユダヤ系団体は、必ずしもその家や土地のかつての所有者の子孫と関係するものではない。この背後に、「我々」の同一性を疑わず、また「彼ら」との差異をことさらに強調する論理が横たわっていることは言うまでもない。そして、この枠組みを突き詰めれば、「我々」の社会に暮らす「彼ら」、すなわちイスラエル国籍アラブ人に矛先が向けられるのは、ある意味で当然の帰結だと言えるだろう。

結節点としてのエルサレムと分断されたパレスチナ社会

では、「彼ら」の側、パレスチナ人社会には統一があるのだろうか。ガザ地区のハマース政府と西岸地区のファタハ政府の例を挙げるまでもなく、ここにも大きな疑問符が必要である。もちろん、今回のようにエルサレム情勢がガザ地区に波及したことで、パレスチナ社会内部の繫がりを論じることもできる。しかし、エルサレムの持つ象徴的な意味合いをそれぞれの主体が別個に引き受け、連携しないままに行動を起こしたと説明する方が、現実に即しているのではないか。ガザ地区のハマースがロケット弾を発射するなか、西岸地区では軍検問所に対する抗議デモが各地で発生していた。そして、東エルサレムではストライキなどが実行され、イスラエル国内のアラブ人(48年パレスチナ人)はユダヤ系愛国主義者の行動に備え、また時には火炎瓶などの手段で「反撃」に転じた。これらは、エルサレムでの事態、そしてその後のガザ地区での出来事によって起きたものだが、そこに統一した方向性や、まして有機的な連携があったとは言い難い。

その一方で、共通の問題に対して行動を共にするという経験から、分断を乗り越えようとする兆しが見られたことも事実である。5月18日(2021年)には、東エルサレム、ヨルダン川西岸地区、イスラエル国内、さらにはレバノンなどに居住するパレスチナ難民らによるゼネストが実施された。報道を通して見たこのゼネストは、2018年10月1日のゼネストを私に想起させた。この時には、「ユダヤ人国家」としてイスラエルを規定する基本法(イスラエルの憲法に相当する)が成立したことを受けて、イスラエル国内のアラブ系住民がストライキを呼びかけた。私が見たのは、東エルサレムのパレスチナ人がこの動きに連携した姿だった。行く当てもなく彷徨う観光客目当てに、小さく扉を開いて営業している商店も多かったが、イスラエル国内の動きに連携して、東エルサレムの商店が軒並み扉を閉めている様子は、意外なほどの一体感に溢れていた。5月18日のゼネストも、おそらくそのような一体感をもたらすものであったことだろう。また、シェイフ・ジャッラーフでの立ち退き関連では、イスラエルのユダヤ系市民団体や諸個人が、パレスチナ人住民との連携や抗議活動への参加を行ったことも、記しておくべきだろう。指導者や政治組織が統一的な立場を示すことができないなかで、住民らによる連携は今後も続けられていくのではないか。ここにも、イスラエル対パレスチナという枠組を脱した、新たな現実がある。

鈴木啓之(地域研究[中東地域]、中東近現代史)


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