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感謝と称賛――はじめに(正木郁太郎)

組織や職場のマネジメントにおける「関係性」の弱体化

近年、欧米を中心に、従業員やその知識・経験などを「人的資本」と位置づけて重視する動きが広がっている。これは日本でも同様であり、2023年には上場企業に対して、自社の人的資本の実態(例えばダイバーシティ推進)や投資の状況などについて情報開示を迫る動きがある。組織のマネジメントに対して「人」という観点から研究に取り組む筆者の立場からすれば、これは望ましい変化だが、同時に「それだけでよいのだろうか」とも感じている。より具体的に言うと、組織は人を単に寄せ集めた「集合」ではなく、人どうしが適切な「関係性」や「相互作用」によってつながった「集団」となって初めて、適切に強みを発揮するのではないかと考えており、もしそうであるならば、「人」だけでなく「関係性」に対する投資や分析も行うべきではないかと考えている。

もちろん、「関係性」を強めるためだからと言って、単に人々に対して「一つであれ」というある種の同調圧力を加え、言わば個性を抑圧することは適切ではないだろう。しかし、人的資本投資の議論にあるような自律・自立した「個」を支えることに加えて、こうした個人どうしが適切につながる「関係性」があってこそ、人は自分のためだけでなく集団や周りの他者のために何かをしようと考えるであろうし、また周囲の他者のポジティブな影響を受けて集団のクリエイティビティや創発性が発揮されやすくなるのではないだろうか。

組織や集団を対象とする様々な研究領域の中には、こうした「関係性」の重要性を指摘する概念や研究が複数ある。例えば、筆者が専門的に取り組んでいる社会心理学の研究では、こうした集団のメンバー間で生じる様々な力学(グループ・ダイナミクス)が古くから研究対象とされており、もともとはバラバラな存在だったはずの「個人」が「集団」としてのまとまりを持つに至るプロセスや、そこに生じる「一体感(集団凝集性:cohesion)」、一体感と共に生じる集団らしさを象徴する「集団規範(group norm)」などがキーワードとして挙げられる。また、経営学や組織行動の分野で言えば、「組織文化(organizational culture)」や「チームワーク(teamwork)」といった、「個人」を超えて生じる集団の特徴に注目するキーワードも多い。さらに言えば、人と人の間に生じる「関係性」そのものに着目した研究もあり、優良な関係性の質・量そのもののことを「資本」と捉え、「社会関係資本(social capital)」や「関係資本(relational capital)」と呼んで行われる研究も学問分野を超えて多数ある。

こうした様々な力学が働くからこそ、多様な個人の寄せ集めが「集団」や「組織」として成立し、いわゆる「組織力」と呼ばれるようなものを発揮することになると言えるだろう。そして、こうした力学を軽視し、「個人」のみを優先するだけでは、組織のマネジメントは奏功しないものと思われる。筆者がいくつかの企業と共同研究や仕事をする中でも、従業員個々人だけでなく、こうした「関係性」に対する問題意識の強さを感じる機会が複数あった。例えば、ある企業では、全従業員どうしが任意の相手を評価することができる360度評価や、それを支える様々な仕組み(本書のテーマである「感謝」も含まれる)によって、従業員間の関係構築やそこから得られる集合知を重視して組織を運営していた。別のある企業では、テレワーク導入を機に「オフィスの本質的な役割は何か」を問われるようになった結果、一つの結論として、一緒に働く相手との共同体感覚や「われわれ」という感覚を持ち、一体感を保つための交流の場としての意義を見出していた。そして、後ほど述べる「ダイバーシティ推進」においても、やはり「関係性」をどのように保ち、向上させるかが組織運営の鍵であると感じられることもあった。

このように、組織が単なる「個人の寄せ集め」以上の力を発揮するために重要である一方、時に軽視されがちでもある「関係性」の重要性を検証することが、社会心理学を学ぶ・研究する立場からよりよい組織づくりに貢献できる点だと筆者は考えた。そして、こうした「関係性」を改善する手段にもなりうる他、幅広い点で組織運営を支えうる、言わばマネジメントのためのスキルや習慣として、「感謝」「称賛」のコミュニケーションを本書でテーマとして取り上げたいと考えるに至った。

ダイバーシティ推進と「感謝」「称賛」

続いて、二つめの理由であり、また本書の研究の直接のきっかけにもなった「ダイバーシティ推進」に関わるエピソードを一つ紹介したい。

筆者は社会心理学、中でも企業組織や職場における心理や行動、集団現象の研究に取り組んできた。特に大学院在籍時から取り組んでいる研究テーマが「職場のダイバーシティ」である。職場のダイバーシティ、すなわち互いに特徴や属性が異なるメンバーどうしが同じ職場やチームで働くことは、時代の変化を踏まえると不可避な変化である。しかしその一方で、職場のダイバーシティの高まりがもたらすものは利益ばかりではない。むしろ、社会心理学の理論に基づいて考えると、同質的なメンバーどうしであれば実現しやすかったはずの「言わなくてもわかる」暗黙の協調が実現しづらくなる、などの困難も増しかねない。これもまた、ダイバーシティの向上という「個人」を活かす施策だけをとっても組織は円滑に機能せず、メンバー間の適切な「関係性」を作る取り組みも併せて必要と言える例かもしれない。

そこで、こうした多様な人々が一緒に働く職場で何が起きるか、そして職場のダイバーシティがもたらす様々な影響を改善するための「条件」は何かといったことについて、筆者は研究に取り組んできた。その成果の一つが、2019年に東京大学出版会より刊行された拙著『職場における性別ダイバーシティの心理的影響』である。

この研究に取り組む中で、幸いにして多くの企業の方々とのご縁に恵まれ、調査や講演の機会をいただくこともあった。そうした講演の一つで、ある意欲的なマネジャーの方から、「ダイバーシティ推進のために、明日から私にできることがあれば教えてほしい」という質問をいただいた。ビジネスの現場ならではのスピード感のある非常に重要な質問だったが、当時の筆者はこの質問に明確に答えられなかった。前掲の拙著の研究では、職場のダイバーシティの影響を改善するための条件として、「チームの分業や役割のあり方を再考すること」「自社に合った多様な人々が協働しやすい組織風土を醸成すること」などの比較的「壮大な」要因を主に扱っていた。それゆえに、「明日から」「一人のマネジャーが」(または組織の全員が)取り組める解決策は多くはなかったためである。このように、職場のダイバーシティをめぐる問題の構造を解き明かし、言わば企業組織や職場のあり方を問うという理論的貢献はできたと感じる一方で、実践的に、かつすぐに取り組める解決策を提示できなかったことが、筆者が常に感じていた研究上の限界だった。

さらに言えば、近年はダイバーシティ推進に関するキーワードとしての「インクルージョン(inclusion)」という概念も広まりつつあるが、これに関しても筆者は同様の限界を今も感じている。すなわち、インクルージョンが具体的に何を指しているのか、「明日から何ができるか」が必ずしも明確でないために、これもまた具体的な解決策の提案が難しいと感じている。こうしたことを踏まえると、具体的な解決策につなげることが難しいという限界は、職場のダイバーシティを研究対象とする社会心理学全体に問われていることでもあるのかもしれない。

それ以来、筆者は前述の問いを念頭に、「劇的な効果はないかもしれないが、すぐに取りかかることができる『第一歩』となる解決策」につながる研究を模索していた。その「何か」を探す中で出会ったキーワードが「感謝」だった。詳しくは第2章で述べるが、感謝は対人的な絆を強める感情やコミュニケーションである。また、筆者が他の研究者や企業と共同で行った調査では、ダイバーシティが高い職場でより重要な意味を持つ可能性も見出された(第3章)。

もしそうであるならば、「日々の感謝をはっきりと伝える」ことや「相手を適切に称賛すること」は、地道ではあるものの組織や職場の「関係性」の維持と強化に効果的であり、かつ、これならばすぐに・誰にでも取り組めるかもしれない。劇的に社会や組織を変える効果こそ期待できないかもしれないが、これが職場のダイバーシティ推進や、チームワークの改善、モチベーション維持やメンタルヘルスの問題の軽減などに少しでも役立つのであれば、「第一歩」としては有望なのではないか。あるいは、「インクルージョン」に向けた具体的な取り組みにもなりうるのではないか。

しかし、あまりにも日常的なコミュニケーションだからこそ、意識しなければつい忘れられてしまいがちであるし、重要性を訴えるにも相応のエビデンスや理論が伴わないと、ビジネスの現場では説得力を持たないかもしれない。このように考え、本書では「感謝」「称賛」というあたり前の日々のコミュニケーションを意識的に行うことが、なぜ、どのようにビジネスの現場で重要となるかを理論と実証の両面から検討した。


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