【21世紀を照らす】 『白と黒のとびら』(2013年)解題: 川添 愛
『白と黒のとびら』を書き始めたのは、今からちょうど10年前、2011年の6月頃のことだ。震災の影響で、東京でもまだ混乱が続いていた時期だった。その上、私は任期付きの仕事の境目にあった。収入が激減し、複数の職場を掛け持ちする落ち着かない日々を送る中、「自分はこのままでは駄目なのではないか」という焦りがピークに達していた。
そんなとき、職場の一つで担当することになっていた計算言語学の授業が取りやめになった。授業のために用意していた資料も無駄になったが、ふと「これを本にまとめてはどうか」と思い始めた。というのも、授業で話そうと思っていた「オートマトンと形式言語」の話に、私自身かなり惹かれていたからだ。
オートマトンというのはいくつかの異なる状態を取る抽象的な計算機械で、それが生み出す文字列が形式言語と呼ばれる。こんな説明をしても意味不明だと思うが、その理論はコンピュータの原理やプログラミング言語、また私たち人間の言語にも深い関わりがある。私は学部生の頃に初めてこれらの概念に触れ、ほとんど理解できなかったものの、妙に魅力を感じたものだった。とくに、形式言語の例として挙げられたaaabbb, abababab,aaabbbaaaといった怪しげな文字列には、どことなく魔術的な印象を受けた。授業の準備をきっかけに、改めてこの理論の美しさに魅了された私は、その魅力をうまく伝える方法はないだろうかと考えるようになった。
とはいえ、私はこの理論の専門家ではないので、教科書や解説書を書ける立場にはない。おそらく自分が書くべきなのは、対話やパズルを含んだ気軽な本だろうと思っていたが、本当にそんなものが書けるのか分からずにいた。そんなある日の夕方、西武線の鷹の台駅で電車を待っていると、突然「白と黒の扉のある遺跡」が頭に浮かんだ。白と黒、どちらの扉を選ぶかで、移動先の部屋が決まる。そういった「部屋」でオートマトンの状態を表し、また白い扉か黒い扉かという選択の連続を形式言語になぞらえれば、理論の説明を「遺跡の探索」というファンタジーに置き換えられると思ったのだ。
その仕掛けを思いついてから実際に原稿が完成するまで、さらに三百ぐらいのハードルを乗り越えなければならなかった。だが、他人の目に触れるかどうかも分からないものを書き上げることができたのは、自分の実力のなさに対する苛立ちや将来への不安、他人へのコンプレックス、一度でいいから自分の全身全霊を捧げた仕事をしてみたいという思いに突き動かされたからだと思う。
この本を東京大学出版会さんから出していただけたのは幸運だった。オートマトン・形式言語理論の本としては完全にイロモノであるにもかかわらず、専門の先生方を始め多くの方に受け入れていただけたのは、ひとえに同会が長年にわたって積み上げてこられた信頼のおかげである。この本が少しでも、専門書・学術書への橋渡しとなっていれば嬉しい。
文・川添 愛
初出:創立70周年記念リーフレット第2弾「21世紀を照らす」(2021年8月)