『ヴァナキュラー・アートの民俗学』あとがき(菅 豊)
ミシェル・ド・セルトーは、政治的、経済的、科学的な合理性に立脚する「戦略」に対して「戦術」という重要な概念を示した。それは自分の力だけではどうしようもない弱者が、身の周りに何か使えるものはないかと探し出し、使えるものが現れるとすかさず摑み取って、細々と手を加えながら、どうにか切り抜けるような智恵、あるいは「もののやりかた」である。ここでこのセルトーの文章を引き写すのは他でもない。彼がいう「戦術」が、日本の民俗学を形作った柳田国男がいう「芸術」と一脈相通じているからである。
アート(art)という英語やその語源であるアルス(ars)というラテン語には、絵画や彫刻、建築、音楽、演劇、文学、映画、舞踊など、現在の日本語で意味する狭義の芸術のみならず、技術や「わざ」といった広い意味が込められている。またアートの訳語である芸術(藝術)という中国由来の言葉にも、本来は技芸と学術という広い意味が含まれている。そして柳田国男の小品文「不幸なる芸術」に登場する「芸術」という言葉もまた、いま私たちが通念として思い浮べる狭義の芸術だけではなく、多様な技芸を含む広義の芸術の枠組みでとらえられている。柳田が「不幸なる芸術」で目を着けたのは、ペテンや狡知、悪巧みといった生きるために人を騙す技芸であり、それらは少々風変わりな「芸術」であった。彼は、そういう悪の芸術、悪の華のなかに鑑賞すべき「美」を感得したのである。
気位が高い柳田は、ある男からペテンにかけられた思い出を、少々恥ずかしげに述懐する。樺太旅行の途次、小樽で知り合いになった男に15円貸し、そして踏み倒された。あれやこれや調子の良いことをいう男に、見事に騙された。彼の家族も、あやうく野菜売りの詐欺に遭うところだった。当時は、足のない鴨の剝製や二重底になった醬油樽、練り物を用いた偽鰹節などを売りに来る食わせ者もいたようである。ただそういう世の中を渡り歩く奸物は、舌先三寸のみならず、足を使って手数をかけて苦労している割には実入りが少ない。手間を食うばかりで、その努力には引きあわない。
柳田は、自分が被害者であるという私心を離れて、その「術乏しき者」、つまり拙いペテン師の陳腐な詐術を歴史のある一種の芸術として受け止め、それへ温かい眼差しを向け、消えゆく運命にある民衆の古風の芸術として懐旧したのである。ここで柳田が芸術と表現した悪巧みは、大悪党がなすような奸計ではなく、けちな人間が、けちな諍いで用いる「微細な小規模な悪計」といった程度のものである。それは、「小さきもの」が生きるなかで駆使した小さな「技芸」、すなわちセルトーのいう「戦術」だったのである。柳田は、女性の悪知恵が自由にして、かつ美しいものがあったと高く評価する。また、そういった悪の芸術を使い熟す「女子小人その他の凡庸」、すなわち当時の社会で見落とされていた「小さきもの」たちが、はるかに敏捷に活躍していた時代があったと考える。
そういう「小さきもの」たちが活躍したのは、なにも悪の芸術世界だけではない。日常的実践のなかの技芸や学術、そして狭義の芸術を含む生活の総体においても主役を演じてきた。この「小さきもの」たちが生活のなかで生み出してきた多様な智恵や手わざ、豊かな技芸といった広義の芸術に着目し、その創造性を理解し、その興趣を味わうために、柳田が編み出した学問が民俗学なのである。柳田は、その伝世の技芸は退歩を重ね、現代に入ってさらに衰微を重ねたと、「芸術」の行く末の不幸を嘆き悲しんだ。
だが、それは柳田の杞憂であった。《かつて・どこか》にあった退歩を重ねる伝世の技芸は衰えたとしても、現代社会では広義の芸術は消え去ることはない。実のところ、それは姿形を変えながら、街中や職場、学校、家庭などの身近な生活の場で、いまでも絶えず更新され続け、不易の姿を見せている。《いま・ここ》に目を向けるならば、「小さきもの」たちによって希求される豊潤な「幸せなる芸術」がはっきりと立ち現れてくる。本書を一読すれば、普通の人びとがその「幸せなる芸術」に飢えていることが十分に理解できることであろう。レンガの壁を黙々と作った老人や収容所のなかで折り紙を作った不法移民、不可避の老いに抗うようにキッチュなアートを作る高齢者、友人たちに作品のぬいぐるみを贈って満悦するおかん、南氷洋捕鯨の土産であるペンギンの剝製を飾る人びと、人を笑わすことに熱くなる島の男たち、のど自慢で競い合う在日フィリピン人等々……。本書に登場する多彩な、そして魅力的な人びとは、後世に名を残すような大人物ではない。それゆえに、その活動は往々にして軽んじられてきた。しかし、その人びとは間違いなく立派なアーティストであり、その生み出すものは正真正銘のアートなのである。本書は「ヴァナキュラー」という概念を糸口にして、そのような現前に存する普通の人びとが、取り組まずにいられない、あるいはなんとなく取り組んでしまう「幸せなる芸術」=ヴァナキュラー・アートの実態をとらえようとする試みの論纂である。