名古屋の始まり
ちょっと名古屋の歴史についてお話しする機会があったんですが、話として普通に面白いじゃんと言っていただけたので、noteにも載せてみることにしました。
尾張と三河
愛知県は今でこそ一つの県になっていますが、中世以前は尾張と三河という別の国でした。
線引きはだいたいこんな感じ。
尾張は土地も開けていて京都、岐阜、三重方面に向かう街道が集まり交通の便が良く、熱田神宮(参拝客でにぎわう門前町が形成される)、津島の港(現在は内陸ですが、当時は海岸線がここまで来ていました)といったスポットがありました。
また、知多半島も陶芸が盛んな商工業地帯だったらしく、戦国時代には知多産の陶器は全国で使われていたようです。
一方の三河は山がちだったために商業よりも農業が盛んな土地柄でした。
どれくらい山がちかと思ってGoogleさんに聞いてみたらこんな感じ。
もちろん平地はありますが、半分くらいは山? って感じです。
そのような土地柄の違いがあり、尾張の人は利にさとい商人気質、三河の人は実直な農民気質と言われています。
清州越し
そんな尾張の中心は、長らく清洲城とその城下町でした。
織田信長などもまだ尾張しか領有していなかった頃は、清洲城を拠点に活動をしていました。
その後、戦国時代の荒波を受けて尾張の主人は次々と変わりましたが、最終的に尾張は徳川家康が領することになります。
そして家康は政治的軍事的、あとは多分に親子の情的な事情で息子の一人に尾張を与えることにしましたが、その時ふと気付いたのです。
「清洲って、よく川が氾濫して水害に見舞われるよね。ってことは水攻めにも弱いってことじゃん。それに城もちょっと手狭だよな……尾張支配の拠点として、もっと良いところないかな?」
そんな家康が目を付けたのが名古屋の地でした。
清洲と同じく交通の便は良く、清洲よりも海に近いため、運河(現在の堀川)を採掘することで港へのアクセスも良好になります。さらに台地の上に位置しており地盤が強固というメリットもありました。
これは良いということで1610年から名古屋城の築城が開始。
2年後には城下町が碁盤の目状に区画整備されました。
そして清洲城下に住んでいた武士はもちろん、約2700戸の町屋、100以上の神社やお寺までもが名古屋に引っ越したのです(すべて完了したのは1614年頃)。
これが清洲越しと呼ばれる一大引っ越しプロジェクトです。
ちなみに清洲と名古屋の位置関係はこんな感じです。徒歩でも2時間かからないくらいの距離らしい。
その後、名古屋は新たな領主となった家康の息子が創始した尾張徳川家のお膝元として、江戸時代を通じて発展していくことになるのです。
名古屋の始まり
かくして名古屋は
「尾張徳川家のお膝元」
「計画的に作られた都市」
という特徴を持って始まりました。
名古屋人の地元愛の強さ、碁盤の目状の区画、広い道路といった名古屋の街の原形は、この頃に形作られたと言えるのかもしれません。
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