(うとQ世話し 男のおばさんの「見誤り」改変版
2021/3/5
(うとQ世話し 男のおばさんの「見誤り」改変版
最近、とみに思うのは、受け手、例えば読者であるとか話の相手(聞き手)であるとかの想像力や感得力が、送り手(物書きや話し手)が思っている以上に備わっている、のだなぁと言う事です。
この受け手の想像力や感得力の潜在能力を送り手が、認識不足による目測のずれから、安易に軽んじたり侮(あなど)ったりし、気づかない恐れがあるから、ちゃんと理解できるように懇切丁寧に説明してあげないと、等というお節介な「見誤り」を犯すと、押しつけ構しさが全面に出た大きなお世話になったり「こちらはこんなこと迄気づいているんだぞ」と言った、これ見よがし臭がぷんぷんする嫌みになったりして、却って信を失う事になるようです。
「もう分っているのに、くどいわよ」
とか
「いわなきゃいいのに。スパイダーマンの格好しているのだから、何も言わなくても一目見りゃスパイダーマンだって分るのに、そこから更に「オマケの爆弾テロ」みたいに「スパイダーマン証明書」とか「スパイダーマンハンドブック」とかを、次々見せられる様なもので、鬱陶しいだけだ」
の類の反応に切り替わってしまう事になってしまいます。
昔、自分の息子に、今になってやっと分ったその気づきを、先取りしたかの様な事を言われた経験があります。
「そんなこと分っているんだから、いちいち説明なんかすな。うっせぇんだよぉ」
と。
それで、最近は成る丈、この説明を控えて相手の想像力、感得力に委ねたり任せたりする努力を致しております。
「努力をしている」と進行形で書いたのは、お喋りで説明好きの自分の本来からするとかなり苦しい作業で、いつ又自分の本来に戻ってしまっても不思議はない、という大いなる危惧があるからです。
少なくともものを書く時には、この「只今努力中」である事を意識するのですが、日常会話ベースとなると、すっかりそれを忘れて喋りっぱなしの説明しっぱなしに、なってしまっています。
この辺の折り合いをどう付ければ良いのか?
お喋りでお節介焼きの「男のおばさん」は日々悩んでおりまる。
余談)
脳天気に産んでくれた事に対しては親に感謝しておりますが、
男のおばさん体質に産んでくれたことについては、いささか不便を感じております。
結構お喋りだった親父は分ってくれるでしょうが、無口だったお袋は
「我が子ながら、うっせぇやっちゃ。
なんで、ウチみたいに静かなのから「壊れた蓄音機」みたいなのがでてきたんやろぅか?産まれてくる畑、間違ごぅたとしか思えん」
と思っていたのかもしれません。
推測ですが。