シリーズ「義憤」発「紆余曲折」経由「合地球的成長」方面行 (し過ぎ)
2021/10/24-2
シリーズ「義憤」発「紆余曲折」経由「合地球的成長」方面行
(し過ぎ)
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
「過ぎたるは」を「過剰」に「及ばざる」を「不足、未達」に置換えれば「過剰で生起する結果は不足や未達で生起する結果と同一である」となります。
以前何かで申し上げましたが
「世の中は愛情(人に目を掛けて貰いたい欲求)と数字(経済的な裕福の希求)を両輪にして動いている」
という仮説に上記の文言を当て填めてみますと前者では
「子供への目の掛けすぎは愛情不足同様、子をダメにする」
に、後者では
「経済的効果の過剰な追求は経済活性化手段の打ち損じと効果は同一である」
になりそうです。
では何故この「過保護」や「過剰投資」が起きてしまうのか?
「し過ぎてしまう」のか。
自分の仮説では
「安心安全、緩衝体(バッファ)、防衛塀数を取り過ぎ」で、逆に言えば「リスク(失敗の経験)の取りなさ過ぎ」の結果ではなかろうかという気がしております。
愛情の項については余り論を待たぬ様な気が致しますので今回は数字(経済)の方を重点的に見てみようと思います。
3年程前の事になりますが自分は以下の様な経験を致しました。
「エアコンの室内機を掃除するのに掃除するお母さんの手にも優しく、小さなお子様にも安心安全な天然植物由来の洗剤の販売です。近頃こういったニーズが全世界的に極めて多くなり国境を越えて一ボトル8000円のこの洗剤が飛ぶ様に売れております。貴店でもこの洗剤を扱えば売上高アップは間違い無し、です」
という勧誘を受けました。田園調布の自宅兼診療院に招かれて。
で、その時思ったのが1ボトル8000円は幾ら何でも高過ぎると言う事より
「全世界というなら、その内数としてシリアやロヒンギャの難民にこの商品をこの人は売る事を想定しているんだろうか?」
と言う多少意地悪ですが極めて素朴なマーケティング的疑問でした。
そもそも彼らにはエアコンどころかエアコンを取り付ける家さえ破壊され追われてなくなってしまっている訳ですから。
幾ら売れるからと云ってここ迄ニーズや生活シーンを細分化し、その極めて狭いニッチゾーンに溢れ返る程多過ぎる「必然性」を探し出す労力を投入する必要性があるんだろうか?
ひょっとしてこの「需要喚起」や「需要創造」という名の世界の大半の人にとって無関係で、却って格差の助長に繋がり兼ねない「こじつけ経済」は完全な「過剰(無駄)経済」なのではなかろうか。
仮にこういった「こじつけ経済」の過剰部分の無駄がなくなるだけでも、つまり人間にとって本来必要な「真水の経済」になるだけでも格差助長の遠因解消と相当なるCO2の削減になるのではなかろうかと。
しかるに現時点ではそれとは正反対に前出の我が国で顕著な事象が、深層では失われた30年の元の「日本のデフレ化」同様世界に拡散されつつあり、それが背後から成長を阻害し格差拡大を更に助長させてやしないかと疑念を抱き始めております。