(うときゅういっきの「これから」同調圧力 その諸相と正体)

2021/12/6-3
(うときゅういっきの「これから」同調圧力 その諸相と正体)
型(形)を重んじると言う事は「外枠」が決まってしまうと言う事と同義です。
限られたπの中で、しかも同一系向による一極集中の混み合いの中なので争いは激化し、お互いの足の引っ張り合いが始まります。
他人(競争相手)の抜け駆けや良い方向への突出は絶対に許されず直ぐに自らと同列の地点に引き戻されます。
それが正義であるか否かとは全く無関係です。只自分より先に進んでもらっては困るという理由だけです。
或いは又、抜け駆けはともかく良い方向へでもそれが突出であるなら日々慣れ親しんだ適温常態やフォーメーションを崩し不安を与えると言う理由で丸め込まれてしまいます。
そして更には「人間は皆同じだから」と言う理由や、それでも未だ列を出ようとすると今度は「KYな奴」攻撃が加わりとにもかくにも猛烈な同列への引き戻しが起こります。
話は少し逸れますが外国の教育では
「人は皆違っているから(差があって争いが起き易くなるので、それに注意をして)仲良くしなさい」
と教わるのに対して、我が国では(その違いや差がなかった事にして)
「人は皆同じ(筈)だから仲良くしなさい」
と教そわります。
詰まり元々の根底概念と発想法が「同質指向」なのです。
確かに指の付け根の共通部分である手のひらがなく個別分岐の指の部分ばかりでは手がバラバラになって物がつかめませんが、手のひら部分ばかりで指の部分がな射場居合いでも同じく物を掴む事は出来ません。
最近外国では指の部分の主張が強すぎてバラバラになっている様ですが我が国では逆に手のひらの部分が強すぎて個別の指の働きがもどかしくなりつつある様に思えます。
矢張り物を巧く掴むには指だけではダメ。手のひらだけでもダメ。指と手のひらがバランス良く配置されていないと物は巧く掴めないという事でしかない様な気もします。
最後に我々の中には何かに付け「し過ぎ」「過剰反応」「過剰傾向」が在る様な気がしております。
その元に何があるかと言えば無意識の「完璧主義」「不純物排斥純粋指向」縦横斜めに矛盾無き「緻密整然指向」言い換えれば「一」への指向がある様な気がしてなりません。
それが単に国民や民族上の「美意識」や「美学」に止まっている内はまだしも、その「行き過ぎ」即ち「一方向への暴走に歯止めが掛からなくなる常態」に置いては意図するとしないに拘わらず結果的にそれが「美学社会」を国民相互監視密告社会に変質させ、挙げ句の果てに「全体主義指向」に向かうと言う又々恐ろしい事になりはしないかと憂慮しております。
美意識や美学というのは本題冒頭でも申し上げましたが「価値観の根幹」に位置するものです。
それは民族だけでなく個人にとっても同様に抜き差しならないものでしょうから扱い方次第ではエネルギーにもなる反面、鎖にもなりかねません。
その扱いには余程、格段格別の注意が必要かと思われます。

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