うとQ世話し 本日の第2弾「常識突破の試み」
2021/1/15-2
(うとQ世話し 本日の第2弾「常識突破の試み」)
前記事以降、本日トータル4本。この記事を含めてあと3本続きます。
まず初めに、自分は科学者でも医学者でも浪花節愛好家でもないことをお断りしておきます。
ただ、かなり科学や医学(特に脳科学)に興味関心を抱き、浪花節にシンパシーを感じているのは確かですが。
そうした自分は以前
「義理人情」はかなり科学的であるという意味の記事を書きました。
それは、決して「義」と「理」を一本にした「義理」というある種の貸し借りから来る「負債感」や、果たさなくてはならない「義務感」「責務感」とは違うよという意味でもありました。定義のし直しによるイメージの転換の試みでした。
どういうことかを今一度おさらいしてみますと
「義理人情」の「人」を天秤のはかりの軸にして左に「義」と「理」があり、これが頭に当たる。又「人」を挟んで右側に「情」があり之が心に当たる。そうして天秤の軸の「人」が身体にあたり、身体を挟んで頭と心がバランス良く保たれているのが理想の姿である」
といった意味でした。
あと、今少し追記すれば
「左右バランスがとれる値としては「義」と「理」がそれぞれ0.5で、足して1.右の「情」が一つで1.それで1=1で左右均衡。なので、比率配分から見て「頭」より「心」の方がより重みがある。
又身体を基にして頭と心を均等且つ円滑にバランス良く働かせるのが元気の素になるであろう」
とも書きました。
しかし、科学的に言えば「心」も「頭の中の産物」です。もっと言えば頭(或いは頭部、脳部)とて、身体の一部に過ぎません。
ですので、ここでは少し言い方を変えて「義」と「理」を「理性」又は「顕在化された思考野」とし「心」を「感情」又は「顕在化されていない思考野」平たく言えば「感情の世界」とか「言葉にならない、捉えようのない世界」或いは又「秘められたるマグマ」とでも言いましょうか。
ところが最近は、この「義」と「理」の世界や力、或いは扱われる「価値比重」が大きくなりすぎ、古来より「心」と言われてきた部分の「潜在野」の感情のもつパワーが押しつぶされてきた嫌いがあるような気がします。
もう少しポンチ絵風に言いますと
「AIに代意表される義と理、即ち「論理」が肥大化し、その結果、生物としての人目人科が本来持っている「不可思議なエネルギー」を圧殺し封じ込め、その活躍や躍動の場を奪い、元気の素を失わせている」
ように見受けられました。
これは科学、医学、浪花節愛好家としての自分の観察から来る直感です。
ですので、数値的な立証は出来ませんが、それこそ自分の非論理思考野はそのように申しておりますので、本日はご報告させていただきました。
「常識」とは「顕在思考野」の産物なので、この際「非常識」つまり「潜在思考野」先導で「常識」を突破してみてはどうなのだろう?とおもっております。