うとQ世話し 修正版 生きにくさ、息苦しさの正体?

2021/3/16-2
(うとQ世話し 修正版 生きにくさ、息苦しさの正体?)
「我が国は、物は揃って居て便利だが、心理的には物凄く暮らしにくい社会だ」
というのが、この歳まで生きてきた自分の率直な感想です。
感覚的な表現で言えば、もう学校はとっくの昔に卒業しているのに、そこと言わず、此処と言わず、行住坐臥あらゆる処で、あらゆる角度から、未だに毎日毎時毎分テスト期間が続いているような、或いは列最後部の先生から、厳しい目線で列の歪みや、姿勢の揺らぎをチェックされている長い、長ぁい体育館での朝礼がずぅっと続いているような感じでしょうか。
そういえば、テストと言えば「点数」
「点数」と言えば「数字」
しかし数字にはどうやら2種類ある様です。
元々の数字は「緯度経度」のように特段の意味は無く、只、位置や状態を表す「科学的乃至は数学的な」自然科学上の尺度でしたが、
いつしかそれに「価値的な意味合い」が備わり、単なる記号としての数字が「等級(レベル、ランク、序列)=その人の価値」を意味する様になりました。
例としては、昔よく言われた「お金の額」「背丈の高低」「学歴(偏差値)」以上が結婚相手選択の要求基準である「3高」(今は却って邪魔の様ですが)
その他には「敷地面積やLDKの数字」或いは「A5ランクの和牛肉」とか「三つ星レストラン」等々です。
この中で幾つかを例に取ってお話すれば、
「お金は我々の層が飲食で豪遊をしたとしても、日に10万もかからないでしょうから、1年でせいぜい3650万。それ以上ン十億稼いでも使い切れないか、争いの元になるか、気の休まらない日々を送るかで、碌な事はない。単なる安心の為の「保険料稼ぎ人生」
ともいえますし、
「3つより5つ星レストランがいいとの伝で、長い時間待たされてようやく入店したとしても、その味が本当に自分の好みに合っているのかどうか?
であれば、風聞に惑わされず自分の舌に合う、並ばなくて済むお店を気儘にハシゴした方が楽しい」
とはいえませんでしょうか?
「数字」特に「等級と化した数字」に当て嵌まる様あくせく暮らすのではなく、自分の欲する生活には幾らあれば十分なのか?
或いは自分の舌に合うお店は何処なのかを「自分自身が決める側」になる様に心がけないと、結局は「心理的に物凄く生きづらい(暮らしにくい)一生」を過ごす事になりそうですので「大切な一生を台無しにしたくない」自分は、それだけは止めたいものだと思っております。
追記)
この傾向は全世界的ですが、特に我が国に於いては更に「型(形)信奉の美学」とでもいうものが存在している様です。
之は喩えて言えばフィギアスケートや体操の規定演技の様に「要求基準に寸分違わぬもの程、高得点」と言う意識が支配的です。
この二つ、即ち数字に「価値を付加した」尺度と「規定演技の要求基準」の尺度によって、がんじがらめの常態化が我が国での「生きにくさ、息苦しさ」の正体の様な気が致します。

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