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「ディベート」の意味、間違えてない?

※この記事は全て私個人の意見に過ぎず、所属する団体や関係者の意見を代表するものではありません。

近年「ディベート」という言葉が、本来成すべき意味を持たないまま独り歩きしてしまっている実情があると、ディベート競技をやっている人間として認識しています。いまや「ディベートは論破すること」という誤った認識とともに、活動や競技に対して懐疑的な見方が浸透してしまっています。

なんだったら某大学の公式が「ディベートで論破しよう!」みたいなタイトルで企画をやっていて、教育機関の役目ってなんだろうな、と残念に思ったことがあります。

ディベーターは、論破という言葉を嫌います。ディベートは、一方的にファクトを突きつけることや相手の意見を聞き入れる隙を与えないようにする競技ではありません。このようなものは、積極的に拒まれるものです。

それゆえ「ディベート活動」と「ディベート競技」の本質的な違いを認識できていないことも、ミスリードな印象を与えるものになっていると思います。まさに意味を履き違えたある投稿がいまSNS上でバズっていますよね。

偶然、ディベート競技を高校(World Schools Debating Championship)・大学(World Universities Debating Championship)の両方で世界一を達成した唯一の人物であるBo Seo氏のインタビュー動画が、日本のネットメディア "PIVOT" で公開されました。まさに、ディベートの本質を語っています。

自分の中でも「ディベートってなんだろう」というシンプルな疑問から「活動と競技の違い」を整理するための備忘録として、このブログを書いていきます。

ただあくまでも自分自身の認識です。実際にディベート競技をやっている人間の間で意味の齟齬が生じている場合もあるので、批判的に見てください。


「議論」の中に含まれる「ディベート」

そもそもディベートを理解するには「議論」という言葉の意味を理解する必要があります。これは日常会話のような単に口から言葉が出てくるものではなく、思考を論理的に組み立てたもの(=主張)を説明し、主張に対して論じ合うことです。

その上で「ディベート(討論)」とは「ある論題に対して賛成派・反対派に分かれて議論するもの」だと定義されます。要するに、さまざまな議論の形がある中で形成される議論の一種を指すものだと認識しています。

ディベートにおける論題は幅が広いです。政治・経済・法・環境・芸術など、1つの学術分野に限らず、さまざまな分野を扱います。

また賛成派・反対派も、必ずしも自分自身の思想・信条に沿って選ぶ必要はありません。実際に活動や競技では、ランダムに振り分けられるため、多様な視点から論題と向き合うことができます。

ただ、単純に主張を言い合えばディベートが成立するかと言えば、そうではありません。つまりお互いの「合意」が成り立つことで、初めてディベートが成立します。例えば、お互いの話す時間が決められていたり、話しても良い範囲が決められていたりしています。
(話す範囲について補足すると、人格否定や攻撃的な発言をすることは当たり前ですが禁じられています。ただそこに至らない範囲では、議論に貢献するものであれば自由に話します。)

「ディベート活動」と「ディベート競技」

先ほどディベートという言葉を定義しましたが、この上に「ディベート活動」と「ディベート競技」があります。

「ディベート活動」は、主張を伝える力と主張の質を上げる力の組み合わせだと認識しています。

まずは声を上げる人がいなければ、ディベートは始まりません。なのでディベーターは話す機会をお互いに提供します。しかし、話の中身が伝わなければ意味を成しません。主張と伝える力には、話を整理した上で、伝えたいことが意図した形で伝えることが求められています。

そして主張が机上に置かれた時に来るのが、相手側からの反論です。そして反論が机上に置かれた際に、自分側は反論に対して反論します。この反論を繰り返す行為が、主張を磨き上げることに繋がります。これが、主張の質を上げることです。

ここで重要なのは、ディベート活動と呼ぶ範囲では、賛成派と反対派の二者しかいないことです。ここには勝敗を決める人はいません。ディベート活動という言葉の範囲では、主張することとともに、お互いの主張を磨きあげることが目的になっています。

「ディベート競技」は、その主張に説得力を持たせて、第三者(=ジャッジ)に提示するものだと認識しています。つまり、さまざまな主張がお互いから成される中で、それぞれの主張の説得力を競うところが目的になっています。
*「競技ディベート」と呼ぶ人もいますが、同義として扱っています。

ここでのジャッジとはどういう立場か。賛成派にも反対派にも寄らず、特定の主義・思想を持たない、平均的な知識・知能を持つ者を想定しており、英語ではAverage Reasonable Personなどと呼ばれています。つまり中立の立場にある上で、どちらの方が説得力があったのかが、勝敗の決まり方になります。「ジャッジも中立になれるの?」と思った方向けに、詳細を後述します。

前述の通り、ディベート活動においては、主張の質を上げることが求められます。つまり主張自体は、必ずしも主張した側に有利に働くとは限りません。磨き上げている過程において、反論した側が主張を優位に見せることもできます(ディベート用語では「フレーム」呼びます)。この見せ方をジャッジに提示し、なぜ自分たちがこの主張・論点において優位にあるのかを論理的に説明することで、説得力を生ませることができます。

ディベート競技では「相手の主張の論理的欠陥を指摘することに焦点が当てられている」という批判もあります。ディベート競技では、説得力が勝敗の基準になる以上、論理的欠陥の上で主張されているものは、説得力が薄まります。だからこそ、この論理的説明力を磨き上げることが説得力の向上に繋がり、それを目指して練習をしています。

また一部には「競技化されていることで本来のディベートの役割を失っているのではないか」という批判があります。確かに競技化されてしまっていることは事実ですが、これはディベートに限らないでしょう。例えば、かるたという遊びは、読み手がいて絵札を探すことにおもしろさがありますが、これが競技かるたになると、決まり字を覚えたり絵札の位置を把握したりなど、本来のおもしろさを超えた競技の側面があらわになるでしょう。プールで泳ぐことに対しても、運動程度で行う水泳と、タイムを計る競泳のように違いが出てきます。

競技化させることで生まれる違いは「戦略を実行する」という行為があるからであり、残念ながら、これはディベートに限った話ではないことはありません。ただディベートを競技化させたとしても、その基礎はディベート活動にあると思いますし、その基礎ができなければ競技もできない、ということです。

ディベート=社会や思想の議論を深めること

ディベートは、社会や思想の議論を深めることでもあります。歴史的に見ると、古代ギリシャでは、市民がお互い議論する行為が市民権を得るための手段だったとされています。それが故に、例えばイギリスでは、議会で政治家が熱い議論を交わしている中、市民間でも喫茶店やパブで展開されるようになりました。これが議会型ディベート(=パーラメンタリーディベート)の由来です。(参考: How to argue like a debate world champion | Bo Seo

ただ「ディベート"競技"=社会や思想の議論を深めること」とは限りません。なぜかというと、前述した通り、競技だからです。なので社会問題の研究や思想・哲学系のサークルなどで行われる議論の方が向いているかもね、という程度でしょうか。あるいはディベート部ではなく「競技ディベート部」と称するべきだったのかもしれないですね。

ディベート競技ではジャッジも競技者

ディベート競技と聞くと、主張する者(=ディベーター)が競技者だと勘違いする人が多いです。しかしジャッジも競技者であることはあまり知られていません。

普通に考えれば「ジャッジも人間なので中立性を保つことって無理じゃね」と疑問に浮かぶかと思います。ここが、ジャッジも競技者である肝の部分です。

試合が一通り終わった後、ジャッジが結果を決めるために10-15分間程度与えられます。その後、結果発表とその結論に至った理由を説明するために10分程度が与えられます。

ここで結果を説明する際に、なぜその結論に至ったのかを、ジャッジは説得力を持ってディベーターに説明する義務を負います。試合で議論された内容だけを考慮して、なぜ勝利チームの方がより説得力があったのかを説明します。この説明が終わった後、今度はディベーターがジャッジを評価します。

つまり、ジャッジがディベーターを評価すると同時に、ディベーターもジャッジを評価するという、どちらも競技者と審査員の役割を果たします。またディベーターはジャッジを評価する際に、評価項目に応じた数値だけではなく言葉でその評価を説明する義務を負うため、負けを付けられたから不合理な数値が付くことが避けられます。

そしてより評価の良いジャッジが、上位の試合や決勝ラウンドのジャッジを務めることになります。このようなシステムのもと、ジャッジの中立を担保するシステムがあります。

ディベートは信頼のもとに成り立つ対話

ここで最初に定義した「ディベート」というものに戻りましょう。2度の学生世界大会で優勝したBo Seo氏の著書 "Good Arguments" には、以下の文章が書かれています(引用は邦訳版)。

「ぼくたちディベーターは相手にマイクを渡す。この信頼の行為なしに対話は成立しないからだ」

つまり、ディベートは対話であり、信頼関係のもとに成り立っていることを示しています。残念ながら現代社会における「ディベート」は、お互いの不信感から引き延ばされた言葉の暴投合戦です。信頼が成り立っておらず、向き合って話し合うことができていません。

ディベートの全ては、人との関係構築のためにあります。だからディベートコミュニティは大学・地域・国籍に寄らず、和気藹々としています。試合では真剣に議論をして、終わればノーサイドの精神で仲を深め合います。これが社会レベルで実行されるようになれれば、より健全な社会的議論ができると思いますし、よりヘルシーな社会が創造されるのではないかなと思います。

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