RPG投げ出しがち人間が、配信上でFallout4を一通りプレイした感想

 Fallout4をプレイしました。

 TESIV: Oblivionを少し遊んですぐ投げた人間でしたが、配信上で全てプレイするという恵まれた環境によって、この膨大なシナリオの一端を何とか走り切ることが出来ました。
 この手の、オープンワールドやらイマーシブシムの類を、私は楽しめる人間ではないと思っていたので、今回こうやってしっかりと遊び楽しめたことは、ゲームプレイの配信に手を染めたことによる思ってもみなかった僥倖でした。
 この体験の備忘録として、何によって楽しめたかを思いつく限り記しておきます。

FPSだったのかRPGだったのか

 RPGだった、と思います。

 これは配信中、コメントで頂いた質問でした。その時は、例えばFPSというジャンルの成り立ち、それからFalloutシリーズの過去作の聞きかじりの見識を並べて、最終的に「ジャンルはシステムではなく体験から分けるべきである」という持論のもと、RPGと断じました。
 FPSと呼ばれるべきゲームは、その起こりであるDOOMが2作目で既に他の要素をかなぐり捨てて敵の殲滅に振り切ったことを見る限り、撃って殺す体験にこそその呼び名が付くべきである、と思っています。
 ちなみにFPSという言葉が無かった時代、即ち初代DOOMの頃は、まだホラーやアドベンチャーの文脈を持ったレベルデザインがされていました。なので、今から翻ってDOOMっぽいゲームをするのならDOOM2がお勧めです、現代で言われるDOOM系、殺しすぎ血みどろ一人称鉄砲遊びとは、DOOM2のことを指します。

 Fallout4のゲームシステムの下地は確かにFPSでした。しかし、では、Fallout4を起動する際に私が期待していたのは何だったでしょうか?
 確かに一瞬たりとも、弾を撃って敵を殺害することに快楽を覚えたことが無かったとは言いません。しかし、撃ちまくってモリモリ殺してオラオラという爽快感の裏には、スーパーミュータント相手にパイプ製の手作りピストルじゃ分が悪い、仕方ないので温存していた10mm弾を、このシーンだけは贅沢に撃ち切るつもりで乗り切ろう撃ちまくってモリモリ以下略、というバックボーンがありました。
 私が期待していたのは、まだ見ぬ状況への遭遇と、その状況へ自分の信ずる所としてのリアクション、例えば気に入らない態度のB.O.S.の勧誘を蹴ったり、群れるスーパーミュータントを迂回して進んだり、シルバーシュラウドとして駆けずり回った果てにケントを救えず彼の部屋に一式を置いてヒーローを辞める、そういった体験を期待してアイコンをダブルクリックしていました。そしてそれは、多分、RPGと呼ぶべき体験だったのだと思います。

ゲームを覗く時、こちらを覗くゲームの視線

 今回、全てのプレイを配信上で行い、記録する方針をとりました。結果的には殆どの時間を、誰かに見られながらプレイすることになりました。
 ペルソナとは誰かに見られている時に被る人格の仮面であり、私の場合それは概念的なものではなく明確です。とあるおじさんが、ゲームの能書きを垂れる人格として被る仮面に、ボイスチェンジャーとLive2Dと、更にうてんという名前まで付けてあります。この世で最もわかりやすいペルソナの具体例だと思います。
 プレイ中常にうてんとして誰かに見られていた(見られる前提で、見える所でプレイしていた)ことは、体験に大きく影響を与えたと思います。何か一つ選択肢を選ぶ際の指針となったり、或いは指針から外れた選択肢を取る際のジョークとなったり。少なくとも、どうでもいい、どうでもいいという選択肢を取ることすら億劫だ、とは一度も思いませんでした。

 本来なら恐らく、自己の直感や倫理観に基づいて、一人でも選択肢を取ることができる、もしくは選択肢を取っていくことでゲーム内の自我を育んでいく所だったのでしょうが、私は今まで、一人ではそこに至れませんでした。ゲームから受ける視線に気づき、ペルソナを被ることが出来なかったのです。
 TESIV: Oblivionではゲームシステムを理解するように選択肢を舐めて、賛成にも反対にも一貫性の無い人物として、キャラクタを使い潰しては序盤で投げていました。ゲームとの対話の拒否、ゲームを人として見ず、攻略対象のプログラムとして見る目線です。
 しかし本当は、ゲームは私に熱烈な視線を浴びせていたんだと思います、さあ貴方の意見を聞かせて、貴方のことを教えて、と。
 今回の体験によって、今後一人で、ゲームの視線にペルソナを被ることが出来るかはわかりません。ですが、少なくとも今回、配信しているという下駄を履いた状態であれ、経験できたことは本当に得難いものでした。

自由にしていいし、自由にしなくてもいいし、そこはご自由に

 私が尊敬するゲームライター、翌週先生は、The Outer Worldsの2周目を「出会った人間の生死をコイントスで決めるサイコパス」として過ごしたそうです。
 私はこれを受けて、この感性でフリーシナリオに向き合うことはできない、こんなロールプレイは私のような幼稚な精神性ではできないと、畏敬の念を抱きました。
 しかしロールプレイとは、奇人変人の仮装ショーではないのだと、今では考えを改めています。私のゲーム中の振る舞いは特筆すべき点のない一般小市民でしたが、他の選択肢の中から最も常識的なものを選ぶ、その行為自体がロールプレイだったのではと思います。
 そしてこれは想像ですが、私が思った常識と見ている人の常識のズレが、もしあったのだとしたらそれは面白みだったかもしれません。

 TRPGのリプレイを眺める感覚で見ている、というコメントを頂いたことがありました。私はTRPGの経験は大昔に1度きりですが、リプレイを読むのは大好きでした。そういった楽しみが、イマーシブシムゲームの動画を見る面白みなのかな、と想像します。

それでも地球は回り続けた

 アーケードスタイルのゲーム文化に長く浸っていると、あらゆる状況は正しく解決する、解決する可能性があると信じることになりますし、その解決を得るのがゲームの大目標であると思ってしまいます。
 大袈裟に言いましたがつまり、避けれない弾は無く、理屈の上で殆どのゲームはクリア可能に作られていて、そうするのが大目標だと思ってしまいます。

 とあるサイドイベントの謎解きで、あらゆる住民に話をした上で手詰まりが起こり、私は途方にくれました。そのサイドイベントを正しく解決することはきっと可能だし、今は正しい解決以外にすべきことは無いと、私の知るゲームの常識において信じていたからです。
 コメントを頂ける環境にあったのは、私には勿体ない幸せだったと思います。「てっきり自爆させるのかと」の一言で、私の中のゲームの常識はどこかへと吹き飛びました。手近なMr.ハンディをハックし、彼の原子力電池へと自爆シークエンスを流し込み、その場を駆け足で去った時、このゲームを進めるというのは状況を解決するだけではないのだと、ようやく理解しました。

ロールプレイと縛りプレイ、或いはキャラクタへの愛着

 デスペナルティが無い、クイックセーブでいくらでも進むことができるゲームでした。私はこれを、無駄に死なないように運用していたつもりです。
 クイックセーブで何度も死んで良い状態を作りリトライ連打にて状況を突破するでなく、何度も死なないように難所の一区切りでセーブを挟む、行動に移すと同じですが気持ちの上ではそういった心積もりがありました。
 のめり込んでいた物語や世界や自分のキャラクタとの、連続性が途切れる1番は死んだ瞬間でした、2番は連続ファストトラベルだったと思います。ではこれらは汚点だったのでしょうか?いえ、ゲームとして必要な部分に雑味を感じるその感性こそがロールプレイだったと、今は思います。

 私は縛りプレイを、そのゲームがもっと面白くなるのであれば選択します、例えば煉獄弐は耐久力と防御力の強化をしないでプレイすると通常使わない全ての武器が浮かび上がって素晴らしいゲームに変貌します。私はスロットと耐熱値も無強化で縛りましたがここはお好みだと思います。
 そして今回、少なくとも自分が納得する粒度でのみクイックセーブをしよう、ゾンビアタックによる突破は控えよう、普段の行動も無駄な消耗は避けよう、ついでに放射能嵐でも来ない限り頭はメガネで固定しておこう……これらは、このゲームがもっと面白くなると、直感で選択したものでした。
 縛りプレイと言えるほどの縛りでもありませんし、こういったしょーもない拘りを許すゲームバランスをこそ本来は褒めるべきだと思います。それを理解した上で、自身を反映したキャラクタへの愛着から沸き上がったロールプレイ上の個性、ロールプレイのためにと初見のゲームにこの拘りを選択した自身の感性、その感性を働かせるに至った配信プレイという環境にこそ、今私は感謝しています、これらのお陰で余分に楽しむことができました。

溢れかえる指示の中、指示は空気になったかもしれない

 指示待ち人間にはオープンワールドが楽しめない、という論を聞きました。何をすれば良いかがわからないから、だそうです。

 今回、FO4のプレイ中、何をすれば良いかがわからなくなった事はありませんでした。コメントで適切な誘導を頂いていたこともあったかもしれませんが、それ以上に、プレイ中は次のクエストの指示でPipBoyは溢れかえり、むしろ何をしないかの選択に悩む程でした。
 遊びやすいオープンワールドとは、指示を見失わず常に目標を供給し続けるゲームのことを指すのかもしれません。オープンワールドを楽しめなかった指示待ち人間の方は、もっと突き放したゲームをプレイされたのかもしれません。

 もう一つ。或いは上記の、何をしないかの選択を行わなかった、それを楽しめなかったのかもしれません。
 指示待ち人間を、逆説的に与えられた指示を全て請け負ってしまう人間だとしたら、無限に供給され続ける膨大な指示を前に、何をすれば良いかわからないという気持ちになった。あり得る話だと想像します。
 私も中々の指示待ち人間の自負がありますが、今回、配信であんまぐだぐだしたくない、サクサクめで行こうという前提がありました。
 結果、ミニッツメンの要請を「今息子がそれどころじゃないので」と蹴り、BOSの誘いを「何か偉そうでイヤ」と蹴ったこと。これらは今回のプレイにおけるペルソナの形成に大きく関わりました。

 まあ、これで個性が生まれてしまった結果、サクサクどころかみっちり入れ込んで遊ぶことになるのですが……つまり、指示待ち人間がオープンワールドをプレイするのに必要なのは、指示ではなく、何をしないかの選択のきっかけなんだと思います。
 しかし何をしないかの選択を、ゲーム内のインセンティブによって示唆すればそれはクエストであり指示です。
 ゲーム側としては、どちらかに肩入れしたくなるような魅力的なキャラクタやストーリーを用意して、プレイヤーの感性が引っかかることを待つことになるのでしょうか。
 であればやはり、プレイヤーとしては彼らの動向を注意深く観察して、自身の感性にしっかりと照らし合わせる気持ちは、必要なのかもしれません。

他人を傷つけることが好きか?……本当に?

 暴力ゲームは好きです。血と臓物が一面に溢れかえるゲームを、特にここ最近は好んでプレイしている自覚はあります。
 しかし今回、単に暴力のみを目的として暴力を振るうことを、覚えている限りではしませんでした。気に入らない態度の相手にも、交渉の決裂等、言い訳をトリガーに、トリガーを引いていたはずです。

 思えばGTAを、通行人を轢き殺し爆殺し焼殺しその反応の違いを楽しむゲームとして楽しんだことがありません。やったことが無いとは言いませんが、少しの猟奇殺人を嗜んだ後に飽き、頭の上に標的マークがついたものを殺す仕事に戻ったはずです。
 自発的な猟奇殺人に、一種の作業感を得たと記憶していますが、自らの衝動で現実では行えない狂気に走るほうが一般的には自由で、ゲームのおつかいに指示されるがまま奔走するほうが一般的には作業でしょう。しかし後者に私は満足感を覚えたのです。

 私が愛した暴力とは、他人を傷つける行為自体ではなく、ゲームが発したシグナルを解決する行為であり、その大抵を他人を傷つけることで達成し、その大抵のご褒美が血と臓物だった、そしてそれを、翻って暴力行為への憧憬と勘違いしていたのかもしれません。薄汚い肉袋にもホイッスルが鳴ればよだれを垂らして飛びつく、私はパブロフの犬です。
 結局、暴力ゲームが好きなのではなく、尊敬する方々にお近づきになりたいがために彼らの好むゲームをプレイし、暴力ゲームが好きなフリをしていただけで、私の目には血も臓物も、飛行機の爆発や破片、健全なエフェクトと同じ物にしか見えていなかったのかもしれません。

 自発的な暴力行為を楽しんだことが、無いわけではありません。鮮明に覚えているのはDOOM4です。
 これは白兵戦にて多種多様な縊り殺し方、グローリーキルを楽しむゲームでしたが、それ以上に私を興奮させたのは多種多様な縊り殺され方。インプに打ち倒されては内蔵を引きずり出され、レヴナントに力尽きてはもぎ取られた腕で顔面を強打される。逆グローリーキル、グローリーデスとも言えるこの演出の数々にこそ、私は興奮していたのだと思います。
 それは私を、自発的な暴力行為に駆り出すのに十分な興奮でした。
 奴らに仕返しをという怒りではなく、これでコイツら殺してもいいなという言い訳を得たことでもなく、単にテンションが上がったとしか言い様の無い暴力行為。あのゲームは殺すしかない一本道の構造でしたが、もし殺さなくてもいい自由なゲームだったとしても、あんなに蹂躙されたら余計な殺戮を行っていたに違いありません。

 序盤、複数のスーパーミュータントに囲まれた時、彼らの口汚い罵詈雑言を聞きながら、私は言われた通り追い詰められたネズミの如く這いずり回り、奥の手の合成ドラッグを使用しながら、殆どの弾丸を吐き散らかし最終的には彼らを排除しました。
 打ち倒した達成感は勿論ありました。しかしそれと同時に、一種の喪失感も否定できませんでした、折角の理不尽で逼迫した状況を、突破してしまえる程の装備とレベルが揃ってしまっていたことを自覚し、今後この程度ではピンチになれないかもしれないという喪失感でした。戦闘中、難所攻略の手応えを感じるゲーマーとしての気持ち以外で、こんな悲惨な目に遭う自身の境遇にも、同じく興奮していたのです。
 襲えば一方的に殺せそうなウェイストランダーへの暴力に興味が沸かず、襲われれば(難度としては兎も角、空気感として)一方的に殺されそうなスーパーミュータントには興奮と共に暴力を分かち合う。私が愛した暴力とは、被暴力のこと、だったのかもしれません。

 長々と言いましたが、詰まるところ一種のマゾヒズムです。それも、口では嫌と言っておかないと気が済まないタイプの、面倒くさいヤツ。

最後に

 以上、いつもリニアなアーケードスタイルゲームばかりプレイしていたオタクが、珍しくオープンワールドにハマった感想でした。
 私の拙いプレイに最後まで付き合って下さったコメント欄の皆さま、そしてこのゲームをギフトで下さった@yanagi_san558氏に、改めて感謝の意を表します。おかげさまで得難い経験をすることができました。

 というわけでナイトシティ行ってきます。


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