東大生になったら
執筆:東京大学理科二類1年 NuNo
昨年度まで大学生は近いようで遠い存在でした。年齢的には一個上。でも身近な大学生は姉貴だけ。どんな生活が待っているのか、どんな楽しみがあるのか。
この記事では大学生になって私が新鮮に感じたこと、初めてした体験を書き殴っていきたいと思います。暇で暇で死んでしまいそうな箱根駅伝のCM中にでもお読みください。
4月-友達100人できませんでした
クラスのオリエンテーション合宿で人生初めてのBBQをしました。東大では2年生が同じクラス番号の1年生を旅行に連れて行くオリ合宿(オリエンテーション合宿)というイベントがあります。よほど楽しかったのか、これまで21:00就寝の良い子ちゃんだったものの、この日初めて深夜2:00までの夜更かし。翌日はバスの窓に頭をぶつけまくり、よくわからない場所で解散させられ、Google Mapを頼りにフラフラと帰路についたことを覚えています。
サークルの新歓がありました。UTFRという素晴らしいサークルに出会えたことをとても嬉しく思います。知り合いが誰一人としていない状態で大学へ飛び込むことに不安を感じていましたが、同志がいると気付かされ、気持ちが楽になりました。
難解な履修登録を終え、いよいよ授業。新品のノートに文字を書き始めるような期待感を胸に抱きながら、教室に向かいました。授業は想定通りハイレベル、ハイペースで高校の延長線上ではないように感じました(高校が超名門校ではないというのもあるとは思いますが…)。同時に前期教養課程のカリキュラムの違和感も感じました。
体調不良でUTFRの新歓旅行に行きそびれ、日々の生活を支えてくれていた親の偉大さを痛感です。
5月-五月祭って早稲田祭より規模大きくないですか?
サークルも新歓期を終え、本格的な活動が始まっていきます。睡眠優等生だった私は慣れない夜のMTGや帰宅の遅いご飯会により、今ではすっかり夜型になりました。
5月といえば五月祭!教育系団体の合同企画でパネルディスカッションのパネラーを経験させていただきました。他にもビラ配りや相談会の相談員、お客さんの呼び込みなど初めての経験を色々しました。この頃はどの先輩が何年生なのかよくわからず、敬語の有無で2,3年生を区別していた気がします。
今は一切行けていないバドミントンサークルの合宿もありました。ドロップアウトする人の多いサークルなので誰も気にしていないでしょうが、LINEを交換したあの人は元気にしているのでしょうか。
6月-梅雨の記憶がありません
早くも地元に帰省しました。地元が恋しくなってしまったのもありますが、私の母校は文化祭を6月の上旬に開催しているので文化祭を見にいきました。自分はすでに部外者なんだと思う反面、一切シフトに侵されない文化祭を楽しむことができました。翌日は友達のいる名古屋大学の文化祭に顔を出し、そのまま東京へ直帰。月曜日の1限に出席した記憶はありません。
忘れもしない6月26日。高校同期から「母校の難関国公立大志望者の受験サポートプロジェクトをやりたい」と提案がありました。カリキュラムの関係上、理科基礎の授業が実施されないなど文系国公立志望が他校に比べて著しく不利な現状を受けて提案。私はまんまと口車に乗せられて試行錯誤しながら、現在もプロジェクトを運営しています。未来の自分の首を絞めがちな選択をする私を恨みます。
7月-試験という名の死刑
7月は長い長い夏季休暇のひと月前。とどのつまり、それは試験地獄を意味します。行かなくなったバドミントンサークルを除けば3つのサークルと1つのボランティア活動を掛け持ちし、慣れない一人暮らしに苦戦する私に勉強する余裕はなく、試験場は凄惨な戦場になっておりました。一夜漬けは当たり前。結果、第二外国語の韓国語と高校時代に勉強していない生命科学の単位を落とし、クラスの中でヤバいやつとしての地位を確立しました(数学2科目は優を取れたので容赦してください)。
しかし、この結果はUTFRに跋扈するジンクスによるものという説もあります。「例年、学祭チームのメンバーが第二外国語を落単する」というジンクスの存在が仄めかされており、それによる影響も考慮せねばなりません。実はそのジンクスはTLPである現職の学祭チームリーダーによって破られたはずでしたが、現職の広報チームリーダーが落単したため、広報チームのジンクスに変化したのではないかと私は睨んでおります。(私は両方のチームに属しています。)
8月-人生の夏休みの夏休み Part1
待ちに待った夏季休暇。大学生の夏休みは2ヶ月と長いです。日本全国を飛び回り、初めての経験をたくさんしました。
茨城県で教育活動を行い、つくば市の端っこで野宿をしました。詳しくは以下の記事に掲載しています。命の大切さと力強さを両方実感できました。
UTFRのコミュニティイベントで箱根旅行へ行き、その足できい先輩と羽田空港で徹夜しました。福岡を経由して対馬へ赴き、対馬高校で活動を行いました。旅程がズレて福岡に取り残されたので、ビジネスホテルに一泊して博多周辺をぼっちで満喫しました。このとき一人旅に目覚めました。ラーメン屋のハシゴも初めてでした。
飛行機の便が遅かったせいか、空っからな名鉄に乗り、名古屋に住む友達の家に向かいました。3日ほど滞在したものの、旅疲れで家から一歩も出なかったのは少し後悔です。
その後、地元へ一緒に帰省し、9月からの石垣訪問までのんびり過ごしました。と、言いたいところですが、飛行機の便を成田空港で取っていた私は台風の影響で交通網が止まる前に東京に戻らねばなりませんでした。2日ほどの帰省後、東京へ出発したものの、結局台風の影響は大したものではなく、飛行機も無事飛び、晴れやかな空とは相反する気分で石垣へ向かいました。
9月-人生の夏休みの夏休み Part 2
1日から8日まで石垣の様々な教育機関で教育活動をさせていただきました。学校の職員の方々はとても親切で、忙しないながらも観光を楽しむこともできました。初めて食べる食べ物や飲み物、初めて見る景色。どれもが真新しく、鮮やかでした。
石垣から帰った翌日は群馬県高崎市の農大二高で教育活動がありました。前代表へのお土産を、この日に渡すつもりが私が預かり忘れていたため、朝早くから2年の先輩の最寄りまで行き、寝巻きの先輩を拝んだのはいい思い出です。
訪問活動が一段落し、いい加減バイトをしねければということでバイトの面接を受けました。家庭教師のバイトなので問題なく採用されましたが、業務内容に嫌気が差したのでバイトを辞める旨を今日、伝えました。いい年が迎えられそうです。
福島県相馬市でUTFRとは無関係の教育支援活動への参加が予定されていたので、仙台へ前乗りして初めての牛タンを食べました。この日、偶然にも同じクラスの人が仙台に来ているという珍事をよそに、入場料無料の展望台からの夜景を眺めて、カプセルホテルで一泊しました。窮屈かなと思いましたが、悪くはなかったです。
2日間の福島での活動を終え、連日でオリ合宿の下見旅行へ行きました。九十九里浜の海風が強すぎて花火の導火線に火がつきにくかったことは記憶に新しいです。
そうこうしているうちに駒場祭で販売する合格体験記の原稿締め切りが迫っていました。期日を超過して提出する無能っぷりを発揮し、迷惑をかけたことを謝罪します。
初めて謎解きにも行きました。最後の謎が解けず悔しかったものの、思っていたよりも楽しめた気がします。先輩方が名探偵だったのは間違いありません!
別サークルのBBQへ行き、(お酒は飲まなかったですが)二次会でお洒落なバー(?)に行きました。お酒を飲まないのにいてもいいのだろうかとすごくソワソワしていたことを覚えています。
9月最終日には第二外国語を落単した広報チームリーダーの母校である千葉県の高校で教育支援活動を行い、帰りにラーメンを奢っていただきました。
10月-目にはいいんですけど、鼻が死にます
怒涛の夏季休暇を終え、授業が再開しました。しかし、初週の週末に私の母校でUTFRの活動が予定されていました。秋学期の初回授業は一部を除いて原則オンライン授業なので、授業再開後早々に帰省しました。このときの反響なのか、3月末に東大のキャンパス案内を母校から依頼され、3月中旬に車校を入れている私は最速の免許取得を余儀なくされております。
主に1,2年生が通う駒場キャンパスには長い銀杏並木があります。「銀杏」は東大のロゴのモチーフにもなっており、葉の形は非常に美しいですが、「銀杏」は鼻をつんざく強烈な香りを放ちます。想像の2,3倍は凄まじいので新入生は覚悟をして秋学期を迎える必要があるでしょう。
秋学期からは実験の授業が始まりました。200分ほど連続拘束される実験の授業は体力的にもヘトヘトになり、木曜日が憂鬱になりました。今のところ実験の考察を毎実験ごとに書けているため、後でまとめて書くという地獄はなさそうですが、あと2回なので何とかやり切りたい所存です。
大学に入ってからは先入観を無視し、面白そうと思ったことには積極的に飛びつくように心がけているため、参加人数2名の山歩き会に参加しました。高尾山へ行きましたが、寒いような暑いようなでよくわからない気候でした。展望台からの景色は綺麗だったものの、電波が届かずSNSに投稿できていないので実は高尾山に行っていないかもしれません。
11月-憧れの朝帰り
2日。野田学園中学校の生徒さんと交流会を行い、キャンパスツアーを行いました。6期生(2024年度入学組)だけで行う初めての活動となり、交流会が長引いてしまったことを申し訳なく思います。
午後は当日一緒に活動した友達と早稲田祭へ赴き、私立の財力を目に焼き付けて帰宅しました。初めて行く他大の文化祭ということもあり、大いに楽しみました。
11月は駒場祭。五月祭を頑張りすぎて駒場祭副責任者を任されましたが、前述のTLP先輩の寛大な御心によりシフト地獄にはなりませんでした。遠方から来てくれた高校同期とも回れてよかったです。自分の所属する団体全てで赤字がなかったようで何よりでした。
駒場祭の打ち上げも3つ参加しました。駒場祭の売り上げから費用が捻出されるので、一人暮らしには天国です。終電がなくなったので先輩と初のカラオケオールをしました(翌日の授業にはきちんと出席)。朝帰りも経験できてよかったです。
12月-「多ぼう」の「ぼう」は「暴力」の「ぼう」
上京後、初めての歯医者へ行きました。定期検診です。歯の綺麗さを褒められたので、こちらでのかかりつけ医が決定しました。
別サークルの話ですが、そちらのサークルの代表に就任しました。同じく教育支援サークルではありますが、まだ黎明期にあたる団体のため活動方針を一から見直し、ようやく方針が固まってきた今日この頃です。この辺りから一気に忙殺されていきます。
私が代表を拝命した団体に所属する早稲田の先輩のお誘いで、東京理科大学の数学体験館に行きました。想像よりもハイレベルな内容を題材にしており、学問を親しみやすくする活動の重要性を改めて感じました。その後、東京ドームの店でドリアを食べ、イルミネーションをチラ見して帰りました。
サークルの合宿(という名の交流会)に遅刻参加しました。そのサークルも後継者問題があるので同期に管理職をゴリ押しして帰宅しました。
英語中級という授業の試験がありました。その授業は発音記号を学び、正確な発音を身につけるというもので、お情け合格をいただきました。正直、帰国子女や英語の早期教育を受けている人が優秀な成績を収める試験内容で同列に評価されるのは非常に不服であります。
20日あたりから熱を出し、最高体温は40.4°Cを記録しました。病院にも行けなかったので熱が下がるのを待って買い出しに行き、流動食を思考停止で食べ続けました。ゼリーがまだ冷蔵庫に3つほど残っています。火曜日にはかなり回復していたので週末を潰すだけになってしまい非常に残念な体調不良でした。
24日と25日には予定が入っていました。ともに複数名での予定ではあるものの去年は自宅で勉強に精を出していたことを考えるに、幾分か充実しているように思います。
28日は私の生誕祭でした。授業はないため、LINEで祝っていただきました。たくさんの人に祝っていただき感謝に絶えません。19歳になり、大人になった気がしますが、同じクラスに通算4浪の23歳がいるのでまだまだ子どもにも思えます。
また、この日はYouTube動画の撮影会もありました。秋学期の期末試験の関係でこの日に撮影した動画のアップロードは遅くなるかもしれないですが、気長にお待ちいただけたらと思います。
東京での予定がなくなったので29日に実家へ帰省しました。一刻も早く帰りたかった私は徹夜で掃除、洗濯を行い、午前4:30に渋谷の道玄坂を闊歩しました。酔っぱらいにヤンキー。大きなネズミの死体と生体。死体を見たときは吐き気がしました。
日の出を眺めながら帰省し、帰省後は安心感と寝不足で5時間ほど昼寝をしました。実家に帰るたびに帰る場所のある安心感と自身の底知れぬ地元愛を感じます。
最後に
うちの家族は朝方が多数派なので、息を潜めて自室でこれを書いています。20時ごろに書き始めたと思えば、時刻は23時4分。
2024年があっという間に感じる反面、体感では2年くらいの時間を過ごしています。それだけ新しい発見や思考、体験や挑戦ができたということです。高校の頃とは比べ物にならないほどの様々なチャンスに満ち満ちた大学生活をどう過ごすかは人それぞれです(1年が知ったような口ですみません)。
情熱を燃やす者。悩み苦しむ者。惰性で過ごす者。
ただし、チャンスは降ってくるだけで自分の意思で手に取らないと始まらないと思います。私は特に大学生になってから表現の仕事を一定数受け持つようになりました。noteによる文章の表現然り、編集作業による動画の表現然り、ビラや本の表紙などの静的な表現然り。将来、このスキルが活かせるかはわからないですが、興味の赴くままに生きていくという人生の指針に従った結果です。
これらの仕事も自分から「やる」と言わない限り、基本的に排水溝に流れていってしまいます。面白そうと思ったことに積極的に飛びつくこの姿勢が、果たしていつまで続くのかは分かりませんが、来年の自分に期待して今年は筆を置こうと思います。
本年もありがとうございました。良いお年をお迎えください。