一つに集まる身体が奏でる
ここちよさの出会い
ナイキのスニーカーがとにかく履きやすくて、履き倒しています。
そのスニーカーははじめておろした時から、自分の足の続きにあるみたいで心地よくて、どこまでもあるいていけそう。
体に馴染むってうれしい。
すいっと、足をつくの中に入れると、すっと私の足の空間のかたちがそのままに提供されて、両方履いて踏み込むと、もう吸い付くように包み込んでくれます。
それでいて、足指の根っこまで伸びてリラックスできて、かかとはホールド感。
そんな頼れる相棒なのですが、さすがに寿命がちかいみたい。
親指の付け根のところが擦れて穴が空いてきてつま先は接着が剥がれてぱこぱこ。そろそろ捨てどきかもとおもい、見た目よく似た別の靴を買ってきたものの履き心地は”べつもの”で、どこかよそよそしくて結局いまだに散歩にはボロボロになってきたそのナイキの運動ぐつを履いていくことになります。
いろんなものの「心地」がよくないと、私は落ち着かないので、もしかしたら
少し過敏ぎみなのかもしれない。
それだけに、身に纏うものとのこんな出会いにしあわせを感じます。
それでふと思いました。
私の身体は私の魂にとって「心地よい」かどうか。
私はピアノを弾きます。
ここのところ、なにかが変わってきていて、なんというか
このナイキの靴みたいに。
身体という”身に纏うもの”
体育はずっと5段階の2でした。
シカのごとくしなやかに走り抜ける同級生にはるかに遅れてどたどたとしかはしれなかった私。
20代、証明写真は何度撮り直しても肩が歪んでいたし、
30代、スポーツ整体の人に「40までにあるけなくなるよ。」と心配されました。
その頃の私の身体はこちこちのプラスチックの箱みたいで
魂(心)のほうも身体のことなどほったらかしで夢見がちで
よく、「たになか、ここにいないよ」といわれていました。
そう、よく身体が抜け殻になっていた・・・
40代になってこれじゃ確かにまずい、
とすこし身体をよしよししてやれる心になりました。
体と一緒に弾くピアノ
そして50代も後半、ていうか、60の方が近い。
今も相変わらず猫背だし、疲れやすい。
体も硬いまま、さらに歳をへて硬さには磨きがかかってきています。
でも、あのころとはなにかが違ってきている。
この体感をなんていえばよいのかな。
ピアノを弾くときのこの変化。
さねよしいさ子の手足、という歌があって
手足すら私には外の出来事で、自分のもののように扱えなかかったから、若い頃この歌詞にとても共鳴したんだと思います。
この歌詞のやさしさがちょっとずつ私にも波紋を揺らしてくれました。
私の不定形の心を宿すには、身体はプラスチックの箱すぎましたが
心もまた、身体に優しくなかったみたいです。
そんなこんなで時間をかけて丁寧に声を聞いてはきていたのだと思います。
ときどき気づきがありながら薄皮を剥ぐようにして、身体はなんていうのかな
”ものをいう”ようになった。ただの箱でなくなっていった。
外見なにもかわらないのに身体は静かに動いてかわってきていたんだとおもう、いや、変わっていったのは、きっと別のなにかかもしれない。
今はちょっとわかります。
ここにおいで、私の手足、ひとつになろう。
そして、手足よ、
一緒に奏でよう。
一緒にみみをすまそう。
こんな嬉しいギフトが待っていたとは、あのころは知らなかったな。
この、ナイキの靴みたいです。
ピアノを弾く時、
すっと心と身体が同じ方向をむいて同じものを見ているようなこの感覚。
いつの間にかパリパリの身体もよれてきます。
見栄えはどうでもよろしい。
いろいろ過敏でややこしくはありますが
心地が良ければ、特に問題はなく。
ただ、私の身体は、私を奏でる。しあわせそうに。
他の不器用は大目に見るからね。
だから、そう、もし今若いあなたの身体がちぐはぐに感じていても
ゆっくりと 許してやれば良い。
時間をかけてゆっくりと使いこなしていけば良いんです。