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音楽と腹の括り方

中学校の音楽の先生に教えられたのは、”音楽”と”腹の括り方”が、深い関係にあるということだったかもしれない。昨日、私の音楽室の掃除をしながら、懐かしく先生の姿や声を思い出しながら、そんなことを考えていました。

ひとつひとつ整理しながら、先生はそういえば、壁のが額縁もきっちり飾るように気を配っていたし、床も自分で拭いておられた。爪の垢ほどのものにもなれない私だけど、こういう有事だからこそ、整えたいと思うのは、先生の影響もあるのかもしれない。
そうして、音楽室を整えながら、気持ちは、中学校のあの屋上の音楽室へ…..

先生に叱られた

華やかだけれども、歩きやすい無駄のない服装で、すらりと伸びた背筋で、今思い出すのは、笑顔。真っ直ぐに、こちらを見据える大きな目。
男の子たちがふざけたのか、壁の時計や額縁が曲がっていると、すぐに見つけて
「それ、直しといて。」とおっしゃっていた、その時は特に怒ってもいないし、普段の声のトーンで、情熱的に合唱の指導をされていたけれども、普段は滅多に怒らない先生でした。
でも、ある日烈火のごとく、怒られたことがあります。

私たち生徒は練習に身が入らず、というか、先生の秘められた情熱に対して、私たちはまるで、気に留めることもなく、なごやかでのどかな田舎者たちのあつまりだったのです。その、いつまでもの平行線に業を煮やしたのでしょう。音楽って真剣にやるもんなんや、受け身でするもんやないんや、と知った日となりました。

私たちはその時はじめて先生が、生徒たちが朝練習にくる前に生徒の服が汚れないように先にきて床を拭いていたこと、生徒たちがついてこず何度楽譜を焼却炉にもっていこうとしたか、ということを知ったのでした。これは言わないつもりだったけど、と言いながら。

これは、かなりのショック療法でした。
先生の情熱が飛び火したかのように、私達は真剣にそれぞれに自分と向き合い始め、全体の音楽を聞き始めたのです。

ただ、先生は決して、下手な子を責めるようなことは絶対にしませんでした。そういうのはむしろ邪念だと私達は自然にそのことを共有していったように思います。

先生に褒められた

誰が先生に私の話をしたのか、それをどこから私が聞いたのかはもう覚えていないのですが、一つ褒められたことがあります。

私が夜中に起きて、布団をかぶって歌を歌っていた、そのくらいのめり込んでした、ということ。それを先生が誰からか聞いて
「あの子はきっと私みたいになる。」といったそうです。

いや、私が特別だったわけではなくて、きっと先生は生徒たちの細かなそういう情報をきちんと拾って、声をかけていたのだと思います。特別うまい子でもなかったし、もしかしたらむしろ芯がとれない、あまり合唱向きのこえではなかったとおもいますが、先生に引っ張られて音楽にどんどんのめり込んでいっていたことはたしかでした。
先生のもとで歌った岩河三郎の”木琴”は、思春期のわたしのおそらく、音楽を超えた、もっと内面にまで染み込んでいたと思います。戦争で妹をなくした兄の無念、木琴をかなでる無邪気な妹。戦争の生の痛みを伴って今も突き刺さっている歌です。音楽のリフレインの意味、フォルテ、ピアノの意味。

クレッシェンドのさなかにいきなりピアノにする手法

音楽を道にした今の私からみても、度肝をぬくような音楽解釈をされたことがあって、これは痛快でした。

私の中学校は近所の学校よりもうんと小さいので、合唱をしている団員も当然合唱コンクールの地区予選のなかでも最小でした。

そのコンクールの曲の最後の最後でもりあげるところ、何小節にもわたる長い音はクレッシェンドして、フォルテシモでおわるはずでしたが、先生はこの音の途中でいきなり一度小さくして、そこかれもう一度クレッシェンドするように、と指示したのです。

これは、どう考えても大人数の合唱に見劣りする私達の合唱のための、先生なりの迫力の追求でした。楽譜上はもちろん、クレッシェンドは一つしかありません。楽譜にないことをしたということになるのでしょうか?

当然それは審査員には通じず、初出場(そもそも合唱部を立ち上げて、コンクールまで持っていったのは、この先生でした。)の私達は県予選にはのぼることができませんでした。でも、あんなに、情熱的に必死に教えていた先生はケロっとしていて、来年なにする〜?と、もうやりたい曲のことで頭がいっぱいのようでした。

私はあなた達が一番だと思ってるから、といったようないわなくっても伝わってきていたような。

教えてもらったのは、覚悟

私達の学年が引退して、しばらくて音楽室をのぞいてみると、随分と空気が変わっていました。
基本的に上の学年の子達が、下の子達を教えるシステムになっていて、先生は職員室にもどっておられるとのこと。下に降りていって先生にお会いすると、先生は
「もう、上の子たちにまかせているの。」

いや、見事に。

先生が目指していた音楽は、人を育てていたことに違いなかったと思い出されるのです。

とにかく迷いを見せない先生だった。腹をくくった人の姿。
それは、正しさゆえではなく、覚悟ゆえ、だったのだと思います。

いや、今も足元にも及ばない、と思うし、
私には私のやり方がある、というかできることしかできん。
できんなりにやる人になると決めている。
それが私の腹の括り方かもしれない。
でも、と。
ここ、utena music field に芽吹く音楽の根には、あの頃の先生のご指導が深いところで作用しているのかもしれない。

これからの時代にむけて、utena music field は、人にとってごはんみたいな必要不可欠な音楽を紡いでいきたいと思っています。

さて、スタジオ風になった音楽室は明日から、それぞれの生徒たちの曲の完成にむけてラストスパート。





愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!