森と微生物の対話は音楽的なあり方をしているに違いない
音楽と土に通じるもの
土中環境(忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技)の著者、高田宏臣氏によると、森と微生物は常にコンタクトをとっているのだという。
私は先週都会から帰ってきて、一転、実家の土に触れながら思った。
その微生物と草や木のコミュニケーションの方法は音楽的なあり方をしているのかもしれない、と。
それは、その「音楽的なるもの」が何か、という定義から掘り下げて語らなければ繋がらないことなのだけれども。
相互のやり取りに活性化される
今週木曜日まで東京でワークショップ。音楽プロセス体験という立場から、人と非言語領域で対話し、響あう喜びに改めて熱いものを感じて帰ってきた。参加者さんが何か、新しい気づきに活性化されている時、間違いなく私もその恩恵に預かっている。そうやって続いてきたのがこのワーク。それは、もしかしたら生命の成長に似ているかもしれない。一人で生きていける生命などありえないように、このワークも成長の媒体として、誰かの体験が欠かせないのだ。
誰かと誰か、それは人と人かもしれないし、過去の作曲家かもしれない。
その営みは動線に現れ、そこでコミュニケーションを試みる。音楽的に。
解決できないものは、誰かの痛みから問いという素材に分解され、普遍的な問いへと変換し、音楽がそれに対応して、新しい道を示す。音楽はシンプルでかつ芳醇な姿を参加者さんと私の前に表す。ミラクルといえばミラクルだけれども、当たり前のことが自然に起こっているだけ、といえば、そうでしかありえない。
楽しかったなあ。
一緒に学んでいる人たちで時間をかけてその非言語のやり取りを深めて同じ体験を共有したことも、個人ワークで一対一で繊細にそこでしか現存しないやり取りをしていくことも。
私たちが見ている方向は音楽だった。
私たちを繋いでくれるのも、音楽だった。
でも、その音楽と音楽はイコールではなく、
樹木が音楽(ムシカ・インストゥルメンタル)とした時の
そのやり取りの方法としての音楽なのかもしれない。
実家の土と話す
実家の土地の声を聞く。
もちろん、声が聞こえるはずはない。
一年のサイクルを3回半という時間経過の中があってこそ
聞こえてくる音楽のような、
時間軸をつたって聞こえてくるその声。
確かに、そうだ。
草や木と土(微生物)とは何か音楽的なやり取りをしているに違いない。
その姿として、この風景がある。
植えた苗、取り除いた雑草。
立てた畝と水や空気の流れ。
少し私も関わることで、触れることで聞こえてくるようになってきた。
自然農の野菜は、苗を植えてもすぐには成長しないで、しっかりと根が張ってから上に伸び始める。それは響きの良い楽器のようでもある。
根と上部の響き具合が良いのだ。
それは根がこの土地と響き合っている姿なんだな。
いっそ、ここで寝泊まりがしたくて、テントを買った。
その微かな、でも壮大な音楽を肌で感じたくて。
まだ実現できていないので、いつか。
いつかここで音楽ワークを
そう、参加者さんたちが
ワークをしに、愛媛まででもいきますよ。
というか、愛媛行ってみたいです。
と言ってくれて、
もし、それが実現したら、ここでできたらいいなと思う。