子どもから音楽は奪えない

どの口が・・・・

数日前に、こうやってつぶやいた私ですが、
全くどの口が言うかな、とあとから冷や汗出ました。


私は、親としてはからきしだめなやつでした。
娘のピアノを教えていたとき、レッスンのときだけでなくて自分で練習してるときも指の上げ下ろしに文句つけていたし、
息子には、我が子ゆえにレッスンの時間は後回しで飛ばしがちになったうえに、せっかく練習していた曲を人に聞いてもらったときに無茶苦茶いちゃもんつけたりしました。多分、そういうときの私は鬼のような親だったと思います。

娘とは、小学校3年生のとき、このままピアノを続けていると親子関係がとんでもないことになる、というところのぎりぎりで、レッスンを終了。
息子は中学校になったときに、さりげに部活動を理由にピアノをやめました。

それでも、ふたりとも音楽が好きでいてくれたのはほんとに、「子どもはそもそも音楽的」だったからで、ぎりぎり急所まで握りつぶす前にそのことに気付かせてくれた我が子たちの、発信力・反抗心に今ではほんとに感謝したい。
そこで学んだことは大きかったから。

「大人のへんな期待や・要求や、心無い言葉がその子と音楽をとおざけていってしまう」

親の音楽に対する思い入れが大きいほどに、その危険性は大きい。
そのことに私はまるで自覚がなかったのです。
人間ってのは、ちょっとしたさじ加減でどっちに転ぶかわからんもんで。

結局幼子の体験は生き残った

今では、娘に今一番気になるミュージシャンを尋ねるのが楽しみの一つ。
どんなふうに音楽に触れ、暮らしに溶け込んでいるのか。私以上に野生児の娘が都会に暮らすのに、音楽は不可欠なんだろうな。そしていつもおすすめしてくれる音楽の仕立ての良さや肌理や、陰影の深さに毎度驚きます。
演奏、という足かせのない自由さがそこにあるような気がします。万年自然児の娘には自由が似合う。

息子は、紆余曲折の末に結局音楽を選んでいます。
たまに帰ってきたときには、私のほうが教えてもらったり、伴奏をしたりして過ごすことが多く、ガッツリ手加減なく音楽ができる時間でもあります。阿吽でわかるところと、むしろ彼がちょっと我慢しながらつきあってるところと、あー、まだ若いなあとか思ってる私もいたりする。もう、音楽的な内実は彼の方がうんと私を追い越していると感じることのほうが多くそれが心地よかったりします。いつか一緒にコンサートができたらいいなあと思う。

あの、私が子どもから音楽を遠ざけてしまった、小学校時代。
そこから、視線をもっと幼い頃にまで向けてみたら、

そこには、この子たちもきっとまだ形にならない音楽に満たされていた時代もあったのです。
音楽的ないきものだった、幼少期。
波の音、触れる風
すべてが語りかけていた時代があったのに違いないと思います。

娘は、小さな野の花をよく摘んで持って帰ってくれました。
息子は、「これ、いい音がする」と石を拾って私にくれました。

かろうじて、そこは、守れたのだな。
こんなできの悪い親だったけど。

::::
今、私の音楽室やサークルを通して出会う人達。
幼少期には誰もに語りかけていた音楽とのふれあいも、大人になっていく、という誰もが通るプロセスの途中で遠のいて行くのは止むをえないことだと思います。さらに、いま世の中に流れている音楽と、その、幼児期に語りかけてくれていた音楽との絆を手繰り寄せることも、決して簡単ではないかもしれない。

でも。
もう一度、今ある音楽体験や演奏との整合性の中で実感したい人達、その必然性がある人たちがここには集まってきているのかもしれないと思ったります。
いや、私自身がそうだから、そう思うのかも。

まあ、ゆうるりと、続けましょう。

ゆりかごの中で聞いたあの音楽に近づくために。

いいなと思ったら応援しよう!

音楽前夜(谷中みか)
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!