自己組織化する音楽
ショパンのバラードの1番を自分で弾いていながら
その演奏が自走し整っていくのを夢中で追いかけていた。
これが多分、始めた実験の成果だ。
音楽を感じるところから始めるワークをしながら、
自分はでも、果たして音楽を本当に聴いているのか
自分の音を本当に聴いているのか、
私自身が救われているのか。
自分を掬い上げられない人間が人に
自分の理論を人に押し付けられるのか、
その中途半端さが、足を引っ張ってきていた。
ドローイングは全て内面で行う。
音楽を身体化するのは上手い方とは言えない、時間がかかる。
でも期限があるわけでないので、
よく聴いて感じて丁寧に編んでいけば日に日に、積み上がっていくのがわかる。
一度理解できたものは逆行しないし、飽きることもへたることもない、
これはドローイングで育ててきた内的聴覚力のおかげ。
ドローイングの成果は、音楽の解析であったり、自問自答であったり
動き、響き、関連、陰影、固めていくものと解放していくもの
それらは、息づいていて、別の生命を宿しているようにすら思える。
人の内面にもともと宿している「自然」が風を巻き起こす。
音楽フィールドの構築の精度が上がれば、
いわばしつけ糸のようなドローイングは手放して良いんだな。
本質的なことはもちろん「描く」ことではなく
描くもののの中にある、それは演奏にしても同じ。
ダルマの目が入ったような気がする。
あるいは土壌が種に力を与えるための十分な準備が整ったか。
自分に足りなかったものが何かわかった。
自分がしたかったことが何かわかった。
鳴っている音は、まだ、全て、とまではいかないけれども格段に聞こえてくる。
今まで、気分のムラがどうしてもミスを誘ったり、
左右の親和性が今一つ掴めなかったりしていたものが、
本筋が通ってきているので、そういうことが枝葉のように思えてくる。
曖昧なところをまだ少し、穴埋めしていく必要があるけれども
結実はもうすぐだ。
最後と言えるところまで付き合ってみよう。
「音楽プロセス体験」は間違いではなかった。