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ギャルの孟子(モー子)

人の負の感情に触れると、妙に気まずい気持ちになる。「あの人、自慢ばっかりしてる」という、嫉妬のような言葉を耳にするたび、それを発した人の声に、小さな棘が混じっているように感じる。「この人にとって、これが“自慢”に映るのだな」と、相手の価値観が垣間見える瞬間だ。

心がざわざわする。なぜなら、その言葉の奥には、たいてい劣等感が潜んでいるように思えるからだ。その影がちらつくと、私はいつも「見なかったことにしよう」と、一歩引きたくなる。

「人は生まれながらにして善である」とは、かの哲学者・孟子の有名な性善説だ。
私はこの言葉を信じたい気持ちで生きている。とはいえ、嫉妬や劣等感に触れるたび、心の片隅でその信念がぐらつく。「本当に人は善なのか?」なんて問いを投げかけたくなるほどだ。

そんなとき、私の心に住みつくギャルが、こちらを振り返る。
「見ちゃったなら別によくね?」

彼女は明るくポジティブで、少々乱暴だが、実に頼もしい存在だ。
「嫉妬とか、むしろ人間らしくてよくね?それに気づけた時点でマジ尊いし」。

私はフランスで暮らしている。この国は哲学が身近だ。テイクアウトを待つピザ屋の壁にまで、「自分が何をしているかわからないとき、それが最高の行いだ」と書かれているし、スーパーの前に座るおじさんは「街の哲学者」と呼ばれている。
でも、私はボードレールやサルトルをさらりと引用するような知識人ではない。それよりも心の中で、とにかく笑い飛ばしてくれるギャルを召喚する方が、性に合っている。

例えば、こんな場面。

「お金の話ばっかり」と批判する声を聞けば、その人が「お金」に特別な価値を置いていることがわかる。「身内の自慢ばっかり」と言えば、「家族」に強い関心があるのだろう。「あの人、やけに自分に自信がおありね」という人は、自信があるかないかが、行動や言動の原理なのだと想像する。

そうした価値観が透けるたび、またも私は「ああ、この人にとってこれが重要なんだな」と思う。同時に、その批判に、同調したり、相槌を打つ事ができず、話題を逸らそうとする自分に、少し気が重くなる。

そんな私は、召喚したギャルの孟子に一喝される。
「うける!嫉妬を感じてもいいじゃん!でも、あんたもさ、それを隠そうとして逆にバレてることあるから!それってダサくね?」

嫉妬、それは苦い感情だ。
劣等感、それは厄介な感情だ。
でもそれは、あながち悪ではない。自分が何を欲しているのかを教えてくれるサインでもある。「この人のこういうところが羨ましい」と感じたとき、それは次に自分が目指すべき方向を示しているのかもしれない。そしてそれは、誰にでもあって然るべきだと、思いやりの心を持っていたい。

つまりギャルの孟子(モー子)、曰く
「その感情、見せるだの隠すだの悩む前に、モチベ上げるバイブスにすれば、それが一番得じゃね?」

フランス哲学の言葉が壁や看板に溢れている街で、私はギャル孟子と話し続ける。
想像してみよう。そして、嫉妬や劣等感という負の感情を、「恥ずかしいもの」ではなく、「あの人も私も、人間らしくて超絶キャワ(※そこまで言っていない)」と、堂々と正面から、ギャルの心で受け入れてみようではないか。
思いやりとは教養と想像力の結晶であり、こうして育てるには手間暇がかかって、なお愛しい。

なんて思いを巡らせていると、ギャル孟子がまた口を挟む。
「てか、それ全部ひっくるめて人生じゃね?自分が楽しんでたら、それで良くね?」

私は、彼女の言葉に軽く頷く。そして、思う。
「わかる。たしかに、それで良くね?」

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