今日のこと
ごく私的なことなんで、
書こうかどうか迷ったけど、
ずっと閉ざされた場所にいたことだし、
とりあえず書きます。
宮崎での落語会を無事終え、
駅から空港に向かう途中、
抗がん剤治療を始めたばかりの
大阪堺に住んでいる俺の母親
(以下おかんと称す)が危篤
との知らせが入った。
宮崎空港で羽田着の飛行機を
大阪着に変更しようとしたが、
チェックインぎりぎりだし、
祝日なんで乗客も多い。願いは叶わず。
それでも20時20分に羽田に着くので、
21時30分頃の新大阪行きの
最終新幹線に乗れば、間に合うかも、
と羽田に戻ることにした。
ところが搭乗ゲート前にたどり着き、
スマホで再び乗り換え案内をチェックすると
新幹線はこの台風の影響で運転見合わせ、
という表示が出た。
それでもなんとか大阪に向かいたい、
そう願いネットで調べると、
新幹線とほぼ変わらない値段だが、
深夜バスの3列シート、
ゆったりリクライニングシート
という座席が1席だけ残っていた。
急いで予約し、飛行機に乗り込んだ。
やはり台風の影響か、
機内は揺れながらも
なんとか定刻に羽田着。
急いで高速バス乗り場の大手町へ。
駅で下りてコンビニでバス料金を払い、
土砂降りの中、バス乗り場へ。
ここで妹から電話が入る。
もし病院に来てもらっても、
今の病院の規則で、
コロナ禍で家族の面会は2人まで、
つまり父と妹だけが面会が許される。
おかんが生存している限り、
入院中、俺は会うことが許されないらしい。
だからわざわざ来てもらっても申し訳ないんで、
払い戻せば、と提案された。
冗談じゃない、もうバスに乗り込む直前だ、
どうしてそれを先に教えてくれなかった、
そう声を荒げても、
私も今、
そんな病院の説明も受けたばかり、だという。
とにかくバスに乗り込むことにした。
カプセルのような座席で、
それなりに眠ることができる。
うとうとしていると、
夜中2時頃にすさまじい雨音で目が覚めた。
恐怖さえ感じるほどの豪雨で、
バスが会社の仮眠所前の停留所で
停車したらしい。
高速から静岡の一般道に降りて来たようだ。
やがてこんな雨風の中、
バスは再び走り出すことなく、夜が明けた。
朝になって雨は小降りになったものの、
バスが走行する気配はない。
この先の高速入口が土砂崩れでふさがれ、
後ろの道の先も土石流でふさがっているようだ。
つまり完全なる立往生。
他にも同会社のバスが3台停車している。
こちらの会社のバスは、
必ずこの停留所で停まるルートをとるらしい。
他の会社のバスは上手くすり抜け、
大阪方面に向かっていったようだ。
困惑顔のバス運転手からの説明では、
とにかくこの場所でお待ちください、
とのことだった。
やがて昼になり、
近くにコンビニがあるんで食料品を買い込んで
バス内で食う。
妹から状況説明の連絡が入って来る。
家内は今日の夕方、飛行機で大阪に行くらしい。
そちらのほうが先に着くんじゃないかとも思う。
空はすっかり晴れ、蒸し暑ささえ感じる。
じりじりとした焦燥感とともに。
やがて昼過ぎ、
妹からおかんが亡くなったとの報が入った。
享年80。
芸人は親の死に目に会えないというが、
今のご時世、
コロナのせいで一般の方も会えなかったりする。
それでも看取る事はできなくても、
亡くなった直後くらいは、
そばにいてあげたかった気もする。
けど、一刻も早く、そんな焦りから、
この交通手段を選んでしまった俺は、
こんな見知らぬ山の中で、
おかんの訃報を聞かされた。
3時になったら高速入口が開かれる。
こちらが訊くと運転手たちはそう説明するが、
17時になっても動き出す気配がない。
今晩もここで夜を明かすことになるんじゃないか
という不安感を抱え、
乗客たちは詰め寄るが、明確な回答はない。
俺は無常の心境で、そんな光景を眺めている。
師匠の死に目には間に合ったけど、
おかんには会えずじまいだったなあ。
大体、抗がん剤治療を選んだのもどうよ。
本人が希望したのだから仕方ないが。
始めてすぐに逝ってしまうのも、
おかんらしいなあ。
緩和ケアのほうが、
もっとゆっくり生きれたのでは?
けど、選んだのは、おかんだから仕方ない。
翌日まで待って、新幹線再開や飛行機を選ばず、
少しでも早く病院に駆けつけたいと、
深夜バスで向かった俺と同じだ。
だから親子なのだろう。
あーあ、しくじったなあ。
“事故に遭わんかっただけ、ましと思いや”
そんな声が聞こえてきそうだ。
コロナ禍、台風。
現代の災害に飲み込まれてしまっていることを
おかんの喪失で実感した。
19時にやっとバス会社事務員から説明があり、
このままバスは東京に引き返し、
途中、三島で希望者を降ろすという。
そこから大阪方面に向かうか
東京に戻るか選択してもらいたい、
またバス自体は、
東名高速で出発地の
池袋と大手町に向かうそうだ。
つまりやっと高速の入口が再開されたということなのだろう。
元々は東京に戻る方法なら、
もっと早く実現できていたのでは?
それはわからないし、
もうどうでもいいことだが、
とにかく三島まで戻ってきて、
俺はバスを降車し、
最終の新大阪行きの新幹線に乗ることにした。
そして今、新幹線内で、
こうしてこの文を書いている。
今は疲れを感じないし、虚しさもない。
悲しいことに、哀しさもない。
ただただ、早く顔が見たい。
そのあと、きっと、じわじわくるのかな?
もう一生行くこともない、見ることもない、
17時間拘束された場所、山に囲まれたあの景色。
けど一生忘れることはないだろう。