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歌っテル【うたってる】 ★こんなにんげんです


■はじめに/こんな想いで歌ってます

半径1mから6,371kmの愛と平和、を大切にしながら描いた希望のメッセージをギターとウクレレにのせて歌ってます。

僕の歌は言霊でもあります。こうありたい、こうなったら嬉しい、という想いを、自分に向けて歌ってます。

それがいつしか、誰かのこころに届いて覚えて歌ってもらえたら、これほど嬉しく幸せなことはありません!

僕の歌は会いたい人にひょいと会いに行く旅をするための「きっかけ」「理由づけ」だったりもします。
どこでもていねいに、心を込めて歌いたい。幸せを分かち合いたい。
僕が死んでも、僕の歌はきっと残る、残るといいな、残ってほしい、残りますように。

そう願いながら、今日もどこかで、歌ってます。


■プロフィール/こんなにんげんです

東京都の南の端っこ、町田市(神奈川県町田市ではないのですよ)に生まれる。
酒には弱いが麻雀と競馬と口喧嘩にすこぶる強い豪快で実は繊細な性格の父と、よく働き愛に溢れた母は、塗料販売店を営んでいた。
三人きょうだいのまんなかで姉と妹にサンドイッチされ、脇は犬たちにがっちり囲まれながら(常に犬がいた。多いときは4匹いた)健やかに育った。

幼少の頃からめちゃセンシティヴな感覚が災いし、親がふと目を離すと何かをキャッチしさめざめと泣いていることが多かったらしい。
特に、父の常に大きな声(叱られている気がしていたのだろう)と、夕方の茜色に焼けた空には格別に弱かった。

名前をからかわれ「てるてるぼうずてるぼうず、あしたてんきにしておくれ〜」とよくはやしたてられイジメられては、泣いて帰っていた。
「泣き虫弱虫いくじナシ」と言われ続けた。

運動音痴で特にボールを使った遊びは全くダメで、いつも仲間に入れてもらえなかった。
それでもキャッチボールを教えたかった父は僕に左利き用のりっぱなグローブを買ってくれたが、やはりうまくボールを投げることも捕ることもできず父に叱られてばかりで、結局すっかり球技は大の苦手の大っ嫌いになってしまった。

いっぽう、物心ついた頃から、紙と鉛筆さえあれば泣かずにいつまでも絵を描いていたらしい。
花や虫や動物やヒーローの絵を描いている時がいちばん心が穏やかだったのは、おそらく「そちらの世界」に没頭することができたからなのかもしれない。

小1、クラスの人気者 I瀬くんが剣道を始めた様子に刺激され、とつぜん、剣道を習いたいと親に懇願した。びっくりした親は慌てながらも入会させてくれた(最終的にはチビなせいで稽古で弄られて小5で辞めたが)。
剣道の稽古ではかならずはじめに10~15分、詩吟を練習する時間があった。このおかげで腹の底(きっとこれはオトナになってから知った「丹田」てやつだと思う)から声を出す、ってことを意識するようになった。

小3の春、新卒の音楽の先生が小学校に赴任した。O野先生は丸顔の美人だった。マセガキは丸顔美人キラキラのO野先生に恋をした。
丸顔美人ええ声のO野先生の呼びかけで合唱団が結成された。もちろん一番乗りで入団。目がハート。毎日丸顔美人ララララ〜なO野先生のすぐそばの特等席。そりゃぁ誰から見てもわかりやすい初恋だった。
トレーニングではじめて「腹式呼吸」を学んだ。これは衝撃だった(厳密にいうと丹田を意識する丹田呼吸と腹式呼吸は違うのだが、子どものころはどっちでも良くて、要するに腹に意識を置いて吸う時に腹を膨らます、吐く(声を出す、歌う)ときにそこから歌う、という意識を持たせてくれたということ)。
小4、学芸会ではオペレッタ「みにくいあひるのこ」の主役を射止めることができた。本番前半、醜い姿で仲間外れにされてすげーいじめられるシーンでは、主役を巡って最後まで争った女子Mさんが誰よりもどつき回してきたのは、これまで誰にも言わなかったイターい記憶。

小5の夏休み、叔父からフォークギターと往年のフォークソングの名盤LPを山ほどもらった(その後、叔父は行方不明になった)。それを少しずつ聴きながらじわじわとフォークソングにはまった。中でもグレープ(さだまさしソロデビュー前の2人組)が気に入り、そのすぐあとの正月に自分のお年玉を初めて使って買ったレコードがさだまさしのLP「風見鶏」だった。以後、グイグイと傾倒していき敬虔なさだ教信者となっていった。小学生だっつーのに。

そんな小学時代だったが「チビ、出っ歯、近眼、でこっぱち、てるてる坊主、PTA会長の息子」というコンプレックスに覆われてかなりいじけて拗ねて屈折した日々を過ごしながらも、絵画と音楽とワンコのおかげで、なんとか生きてこれた。

中3、部屋を眺めて「はっ!」として数えたら壁と天井にさだまさしのポスターが全部で8枚貼ってあった。これは中3男子としてはやばいのでは!と焦り、2枚剥がして雑誌「BOMB!」のグラビアにあった中森明菜と斉藤由貴を切り落として、貼った。2枚だけかーい。

その冬のクリスマス会では、初めて人前でギターを弾いて歌った。大好きだったS井さんに捧げたくて高校受験勉強もそっちのけで練習して、小5の夏に叔父からもらったギターで歌った。巻き込まれたクラスメートK池くんとK岡くんありがとう。ちなみにふたりともスポーツ万能のイケメン。ま、それはいいんだけど。

高1、フォークソング部に入り弾き語り生活はいよいよ本格化。放課後弾き語りコンサートで毎月歌った。或る日、出演後に「うまいうまい、さだまさしそっくりだった!」とシニカルに笑いながら薄暗い廊下を去っていったクラスメートA野さんの言葉に衝撃をうけ、このままではいけないのだ~!と痛感し、自分探しの旅が始まった。
他のアーティストへも興味を広げ、井上陽水、村下孝蔵、忌野清志郎、ジョン・レノンをはじめ、多くの楽曲を聴いた。当時はアーティストがレコードのスリーブに綴ったことばやラジオ番組でのトークから、世界観をうかがい知る機会が多く、とにかく聴き漁った。
このころの迷いや葛藤、雑学、雑食が、のちに出来上がるメッセージスタイルの基盤となっているのは間違いない。とにかく、あの頃はよく喋るアーティストが多かった。

大学(多摩美術大学)に入ると、T中くんとの衝撃の出逢いがあった。リーゼントに赤いスイングトップ、ジーンズはロールアップした501、タバコはラッキーストライク!!!そんな彼からアメリカンカルチャーを学んだ。それまでのフォークソングスタイルから一変して洋楽、それもフィフティーズやロカビリーといったクラシックなロックやPOPSに興味を抱きのめり込んでいった。方向を逆サイドに振り切った感じだった。大学デビュー!か。
映画「アメリカングラフィティ」とドーナツショップ「ミスタードーナツ」で常に流れるフィフティーズ。町田という独特の土地柄が育んだ米軍関係の人々の暮らしが色濃く反映された文化(古着屋や中古家具屋がたくさんあったし米軍関係の人々も町中に多く普通にいた)。それらが堰を切ったように自分の中にどどどーと流れ込んできた。


大学3年の春にT中くんとロカビリーバンド「OK牧場」を結成。「OKテル」として、Vo ・アコースティックギター・作詞作曲を担当。
2003年には音楽ライター・鈴木カツ氏(ボブ・ディラン研究の第一人者)プロデュースによる、OK牧場として3枚目のアルバム「Go! Go! Little and Tall」を1000枚プレス。リリース半年で完売。メンバー4人のそれぞれの仕事を調整しながら各地へとツアーを重ねた。

大卒で就職した会社は表現活動にめちゃくちゃ寛容だった。そこには演劇や漫画や映画、文筆、DJ、音楽など様々な仕事以外の活動をしている仲間がたくさんいた。1995年冬に関西へ転勤した後も、バンド活動は続いた。

2007年に20年間の活動を無期限休止。
バンド活動がなくなったとたんに「ぬけがら」になってしまった・・・。
弦を緩めたギターをしまいこみ、音楽を全く聴かない、カラオケにも行かない、廃人同様の日々を過ごす。

2014年ごろから、見かねた友人が次々と声をかけてくれて歌わせてもらう機会が続き(本当にありがたかった・・・K鉄ちゃん、Sゲ、Uさん、Gメさんありがとう)、2015年秋にはソロ名義「歌っテル」として音楽活動を本格的に再開した。


2016年に高校の同窓会で再会した同級生J(大手音楽レーベル出身のエンジニア兼プロデューサー)と意気投合。哲学家でもある彼の思想や言葉に支えられながら翌年7月についに1stアルバム「愛と平和。」をリリース。当時50歳のことだった。


2021年の3月に会社の先輩から紹介をいただき「メズム東京、オートグラフ コレクション」という素晴しいハイクラスホテルのラウンジで歌わせてもらえることになり、これまでのスタイルから更に表現の幅が拡大成長した(こののち、季節ごとに出演を継続することになった)。


2021年夏から2022年春までの1年間に「ある想い」を込めて4枚のアルバムを季節ごとに連続リリース。
京都の「Studio Flavor」エンジニア奥田氏の高い課題解決力、イラストレーターおさないまこと氏のすばらしいジャケット絵、多くのアーティスト仲間の参加協力をいただきセルフプロデュースで完成させることができた。

2022年秋に母逝去。
通夜から葬式が終わるまでのあいだじゅう(住職の読経中も)4thアルバム「愛と平和。4」を流し続けて母を送り出せた。


いまもなお、コミュニケーションデザインを生業とするサラリーマンと音楽活動の「二足のわらじ」を履き続け、ギターとウクレレを担いで各地の会いたい人に会いに行き、今日もどこかで「歌っテル」。

※:母が末期ガンで抗がん剤治療に入り体調が悪化していく状況の中で、できることを考えて辿り着いたのが「育ててもらった証として、歌をアルバムにして母に届ける。」だった。季節ごとにできあがったCDを持っていくたびに母が元気でいてくれますように、との願掛けだった。


■母からのたいせつなことば


「後悔はしないのよ。反省はするけど。反省はして、次に活かせばいいの。後悔を引き摺ってもいいことはなにもないわ。」

「もしもあの時こうしてたら、とか言わないの。どうせ変わらないことをあれこれ引っ張ってもしょうがない。それよりこれからのこと考えたほうがいいでしょ。」

「あなたは気が弱いんじゃないの。繊細だからいろんなことが見えて気になってしまうのね。それは悪いことじゃないのよ。気が弱いんじゃなくて、気が細やかだってこと。それは大切なことよ。」

「しょぼんとしてないで、胸を張って、大股で、前をしっかり向いて歩きなさい。いじけない!背が小さいからって気にしない!はい、いってらっしゃい!」

「あなたのことだからいろんなひとが現れるとは思うけど、あなたのことを大切にしてくれてる人のことを、大切にしなさいね。」

「そりゃあ、そうよ。わたしは、てるくんのお母さんなんだから。」


■尊敬する表現者

さだまさし、谷川俊太郎、灰谷健次郎、宮澤賢治、重松清


■好きな言葉

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」マハトマ・ガンジー

「いいことはすぐやろう。やろうかどうかなやんでいると、いいことはにげてしまうよ。」ブッダ

「いつもお互いに笑顔で会いましょう。笑顔は愛のはじまりですから。」マザー・テレサ

「人生はひどいものだけれど自分から投げ出すほどのものではない。」ゴーリキー


■公式サイト


■公式youtubeチャンネル


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