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美の覚醒vol4  コマーシャリズムVSナチュラリズム

コマーシャリズム&ナチュラリズム
このふたつは決して喧嘩しないのだが、ただ単に自分の中で「喧嘩させている」ことがあるだけだった、と気づいたお話。

ある時期、ヨーガ修行仲間(女子)は「肌の断捨離」と言って一切の化粧品を使わないことにチャレンジしている、という。
最初はボロボロ、カサカサになり大変つらいが、そのうちに肌が自浄作用などを思い出してシットリしてくるのだそうだ。
ヨーガでは執着を嫌う余り財産を持たず、裸で過ごす修行者も、言葉が悪を生み出すこともあると一生沈黙を守る者もいる。
コテコテ行き過ぎた趣味の領域だ。

ある時期、私は人間の創作物には一切興味が持てなくなった。
小説、映画、いろんな作品、所詮、人間ごときが作ったものじゃないか、と。
この地球(自然)ほど、美しいものはないと思ったのだが、今は、人間たちが産み出すものたちを美しいとも思うし、感嘆もする。

どちらか、ではない、とようやくわかったというところ。

資本主義で生きていると
お洒落や美容などのアウターに「お金を死んでもかけない派」や「お金は死ぬほどかけたい派」が現れる。
もし、どちらかがどちらかの「アンチ」で、否定する相手がいるという人生は、疲れる。

私がそうだったが、ブランドものには興味がない、という人は多い。
「私、そうゆうのは全然興味ないの」と言っても、そもそもアウターにお金を出す発想がなく、見ることも味わうこともない、買わない、買えないだけの場合も多いと思う。
ブランドものそのもの、よりも、極限に美しいものを生み出そうとする、その世界観を知らない。

【美の覚醒】というプロジェクトを通して
美なんてとっくに過ぎ去ったテーマだ、と決めつけ内面重視の私が
人間にとっての美とは何か、考えるようになり、年齢を経てきたからこそ、内も外も美しく在ることは非常に大切だと思うようになった。
アウターに関しては「手を抜く」ことに言い訳が山ほどある。
手を抜くならば、かなりの説得力を持って手を抜かないといけない。
こっちこそ、至難の技である。
言い訳や正当化には注意したいものだ。

仕事として撮影を一緒に体験させていただいてその方の「芯から発する本物のその美しさ」に触れると何とも言えず至福と喜びを感じる。

お写真は当日、ポーンとヌードになってくださった方。

美しさを覆っている人はいるけれど、美しくない人など存在しない。



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