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コチ 2−3

 コチのぎこちない飛び方は知っている。
 ホリデイの飛ぶ速さであれば、もうすでに追いついてもおかしくなかった。

 「何処行ったんだよ、あいつ。おーい。コチ。」

 

 コチは、飛ぶ事に疲れ、休んでいた。
 上空で、ホリデイらしき蝶が、叫びながら過ぎ去った。
 コチは、道路脇の街路樹が作る影の下にいる。

 「まったく、そんなにはしゃぐなよ。」

 今日は良いお天気だ。
 太陽は張り切っている。
 日陰に馴染んだコチの目は、はしゃいだ太陽の光が視界をぼやけさせ、すぐに回した。
 呼吸もまだ乱れているし、もう少しここで休む必要がありそうだ。
 コチにしては、ずいぶんと長い距離を飛んできた。
 見知らぬ木から、木漏れ日が届く。
「戻ってもいいのかな?」
 コチはジイさんを想った。

 せっかく見つけた寝床だったのに、突然現れた蝶のせいで帰りづらくなってしまった。
 コチはジイさんの優しい声が好きだった。
 ジイさんは俺を迷惑だと思っているのだろうか。
 答えを聞かずに、コチは今ここにいる。
 「別に逃げた訳じゃない。」
 コチは自分に言い聞かせた。
 揺れる木漏れ日までもなんだか、自分を嘲笑っているかのようだった。

 休むコチ。
 足元は透明、まるで宙に浮いているようである。
 ここに止まった理由なんてない。
 疲れたから止まっただけだ。

 「嫌だ。気持ち悪い。変な虫がくっついている。」

 男女二人の人間の若者がやってきて、車のフロントガラスに貼り付いた虫を見ながら何やら話している。
 この日の為に、男がピカピカに磨いた車に付いた虫を見て、女は、眉間のシワを寄せ、その深いシワを見て、男は苦笑いを浮かべる。

 「車が走り出したら、きっと飛んでいくよ。」

 男が、なんとか女の機嫌を取ろうと陽気に声をあげ、二人組は車に乗り込んだ。
 もちろん、コチは人間の話す言葉はわからない。
 言葉はわからなくても、車の中から、コチの腹を憎憎しく見つめるその眼差しは、言葉以上に伝わるものがある。

 「そう睨むなよ。どいつもこいつも俺を追い出したいんだな。誰が出て行くものか。俺はここを離れる気はないよ。」

 突然、地響きが鳴る。
 車のエンジンがかかったのだ。
 振動するガラスは、そこにいるコチを小刻みに激しく揺らした。
 揺れる体、慌てふためくコチの吐き出した言葉もまた揺れる。

 「お、おい。ど、ど、どうなってる、るんだ?」

 車は、徐々に走り出し速度を上げる。
 コチの体は、だんだんと強く向かってくる風に押されて、体がガラスに張り付いていた。
 生意気な口もガラスと風に押され、言葉を封じた。
 なかなか、飛んでいかない虫に対して、イライラしている運転手。
 ますます、車はスピードを上げる。
 コチは、振り落とされないよう、ぎゅっと力を入れる。
 ただ、そうする事に何の意味があるのかコチにもわからない。
 何もしなくたって体はガラスに張り付いている。
 コチは動く事さえ出来ないのだ。
 ガラスに押しつぶされていない方の片目で空を見上げると、青い空にはゆっくりとちぎれ雲が流れている。
 「のどかだねえ」
 意識がどこかに飛んでいきそうになった時、急に車は止まった。
 信号の色は赤だ。
 コチはこの大きな物体が、突然止まった意味もわかりはしない。
 成す術もないほどの強靭な力の持ち主がルールという檻の中で、清く正しく行動しているとは、コチは想像もしていないだろう。

 「全く馬鹿みたいにはしゃぎやがって、いいかげ・・」 

 コチの捨て台詞が終わらないうちに信号は青になった。
 青は走れ、だ。
 まだ、目の前を張り付く虫を振り落とそうと、車は勢いよくアクセルを踏まれ走り出した。
 コチは風に押されてガラスにまた張り付いた。
 二人の人間の不快な顔。
 いい加減、この顔に何の感情も湧かなくなる。
 「いいから、ここから早く下ろしてくれ。」
 さっきの意地は、とっくのとうに消えている。
 コチは、ここを「どかない」って言っていたけれど、今は、どけない状況が問題だ。
 次の信号は、まだ先だ。
 コチも信号のルールはこの際覚えておいたほうが良い。

 「ジイさんは今、どんな風に揺れているのだろう?」
 風に押されガラスに張り付きながらも、コチは、今、なぜ?そんな事を考えているのだろう?
 いや、さっきと同じだ。
 気が遠くへと旅立とうとしているのだ。
 だから気がつかない。
 横から勢いよく何かが迫っている事を。
 コチの目の前に突然黒い影が勢いよく突進してきた。
 ワイパーだ。
 ワイパーはコチを空高く吹き飛ばした。

 運転席の男は、フロントガラスを見回した。
 どうやら、ガラスは汚れていないようだ。
 運転手の顔色が明るい色に変わる。
 コチは、残念ながら、その顔を見る事は出来なかった。
 コチは、対向車線の空をくるくると回っていた。

 くるくる回る視界は、笑う太陽と冷ややかな道路を交互に映す。
 そして、コチの目に一瞬迫り来る車が映り、また太陽がニンマリ笑った。

 「わっ」と思った時には、車はコチの目の前にあった。
 物凄い速さでコチの脇を通過していった車が起こした風は、コチをさらに吹き飛ばした。
 そして、コチの意識も吹っ飛んだ。
 コチが、意識を飛ばしたのは、これが初めて。これっきり。もう2度と意識を飛ばす事が起こらなきゃいいな。コチは、意識を失う前にきっとそう思ったに違いない


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