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ホラー・グロテスク映画不感症

こんにちは、Aさんです。
実はAさんはクラシックバレエが大好きでして、幼い頃から実らせたバレエ愛を形にすべく、昨年バレエ教室の体験に行きました。あまりの楽しさにそのまま入会してきたのですが、それから一度も行かないまま会費だけを払い続けています。
「今日こそ行くわ、今日こそ……」という闘志はベッドの中で消失していき、「やっぱ今度でいいか」とキャンセルの連絡をし、一日をぐうたらと過ごしてしまうのです。なんという贅沢で惰性な無駄遣い。来年こそ、来年こそ通います、バレエへ。
そしてAさんも『テレプシコーラ』の六花ちゃんや『トウ・シューズ』のくるみちゃんのように、世界を……目指せるような年齢ではないので、海外の有名カンパニーの公演を観に行きたいものです。

さて、今回はタイトルのとおり、Aさんがホラー・グロテスク映画不感症になった経緯を綴っていこうと思います。
過去に公開されている映画やドラマなどのネタバレがバンバン出てくるかと思いますが、配信視聴やレンタルなどが可能な映像作品しか出てきません。タイトルが見えた瞬間に色々な判断をご自身でしてください。タイトルは二重鉤括弧で記しているので、「『」が見えた時、読者の皆様の反射神経が試されることになります。読んだ後に「ネタバレ喰らった!」となっても怒らないでネ。有名な作品しか基本出てこないので、基本的に映画のこと知っていたらネタバレっていうほどの爆弾は喰らいません。


ホラー恐怖症のAさん、強制的に『呪怨:呪いの家』を観させられる。

Aさんはホラー、特にアジアンホラーが死ぬほど苦手だった。数年前まで『リング』など、名作と言われるホラー映画はじめ、ホラーと名のつく映画は全て避けてきた。
幼少期に1990年版『IT / イット』を観て、ホラー映画という概念を知った。それはもう恐ろしい体験であった。今でもAさんは隙間があるとペニーワイズと目が合うのではないかと気が気でなくなる。ピエロも怖いが、ドアの隙間やカーテンの隙間がとにかく怖い。
しかし、『IT / イット』に関しては観たのがあまりにも幼い頃だった為、10代前半の時に「そういや、イットってどんな終わり方だっただろうか?」という好奇心を抑えきれなかった。
レンタルビデオ屋で2枚組DVDをレンタルし、自身のパソコンを祖父母宅の居間に持ち込み、ペニーワイズと対峙することにしたのである。祖母に手を握って一緒に観てくれないか、とお願いしたが、「あんた何言ってんの」と一蹴された。
前半こそ「ぎゃっ!」だとか「ぐわっ!」という雄叫びをあげていたが、後半になるにつれペニーワイズのお粗末な正体に、「これはもしやギャグ映画では?」という結論に至ったのである。
Aさんは歓喜した。ペニーワイズが与えてきた長年の恐怖に打ち勝ったのである。が、その日、ありとあらゆる隙間から何かがこちらを覗いてくる悪夢を見て、ホラー映画への恐怖心をさらに募らせることになった。
『IT / イット』という映画への恐怖心には打ち勝ったが、ホラー映画がもたらす恐ろしさとそれに付随する副作用(主に悪夢)には完敗したのだ。

それからというもの、ホラー映画はハードル走のようにAさんに立ち向かってきた。奴らはこちらが走るレーンにドッスンと腰を下ろし、跨ぐのか?それともぶつかってみるのか?はたまた立ち止まってみるのか?下をくぐるのもありだぞ?とAさんを試してきた。その度に、Aさんは「おんどりゃ!」とハードルをレーンの外側へ跳ね飛ばしてきた。Aさんの人生にホラーというハードルは存在しなくても良いのだ。
関わりたくもないのに、人生の道半ばに現れる。それがホラー映画というものだ。

さて、そんなふうにホラー映画から逃げ続け、アラサーになったAさんにみんなご存知、NetflixがRPG弾を放ってきたではないか。
戦場でさえそんな歩兵火器が放たれたら、誰かしらが「アールピージー!!」と注意喚起で叫んでくれ、こちらもサッと地面に伏せる心構えを持てるであろうに。真昼間の柔らかな光が差し込む寝室のベッドで、旧ソ連の兵器を近距離でくらうことがあるだろうか。Netflixはいつから戦場になったのか。Netflixさん、戦線に私を送るときはせめて「アイリーン」の一言をください。(なんのこっちゃという方、『ブラックホーク・ダウン』を観てください)

あまりの怒りで比喩表現が長くなりすぎたじゃあないか。
簡潔に記すと、ほのぼのとした映画を観ていたAさんのiPadの画面が自動で切り替わり、Netflixオリジナルドラマ『呪怨:呪いの家』が強制的に再生されはじめたのである。まどろみながらほのぼの映画のエンドロールを味わおうとしていたAさんに、この再生を阻止する力はなかった。
いかにもな音楽、極端に彩度と明度を落とした、湿度と粘度が絡みつく映像。「あたし、ホラーだもん!!」というドギツイ主張がAさんの眼前に襲いかかる。
やめてくれ!!こんなもの観るはずがなかろう!!とアプリを強制終了させようとするも、あまりの恐怖で手が止まる。
「これ、アプリ終わらせたらバチ当たらない?祟り降りかからない?」と思考停止。正常な判断ができなくなったAさんは、そのまま『呪怨:呪いの家』をノンストップで視聴し続けた。全6話、約180分。エログロホラーの申し子、令和版呪怨を全身で浴び続けたのだ。

ホラーだけならまだ良い。まだ耐えられたかもしれない。しかし、性的な暴力表現が加えられ、人々を陰鬱な呪いへぶち込んでいくこのドラマ。気が滅入るどころの話ではなかった。
なぜ観続けたのだ?!途中でやめれば良かろう!!
そう思う人が大半だろう。しかし、だ。『呪怨』というコンテンツは、とにかく理不尽に呪いを撒き散らかしてくるのだ。
例えば『リング』のように、呪いのビデオを見るなどの何かしらのアクションを起こしたら、呪いの念が発動するのならば理解できる。しかし『呪怨』はとりあえず関わったもの全て、なんならほぼ関係ない人をも巻き込み、命を刈ってくるのである。そんな理不尽コンテンツ、中途半端に視聴しようものならば……ひえっ、今でもゾワゾワする。
そのくらい当時のAさんにとって『呪怨:呪いの家』は恐ろしい映像作品だったのだ。


Aさん、恐怖心に打ち勝つべく、ホラー映画を観まくる。

Aさんは激怒していた。
新作だから、イチオシだからと、なんの脈略もなく、視聴していた映画と正反対のコンテンツをぶちまけてきたNetflixに。
そして、何よりも、ホラー映画・ドラマを極端に怖がる自分自身に、だ!!
苦手なものからは全力で逃げるという姿勢を貫いてきたAさん。こんな形で過去の自分の生き方に復讐されるとは。許しがたい!!
弱点があるから、恐れというものは更に強さを増すのだ。もはや、Aさんの人生からホラーを排除するのは難しくなっていた。それならば、克服してやろうじゃないか。ホラーを手中に収め、躾けてくれよう!

次の日の昼間から、Aさんは映画版『呪怨』『呪怨2』、そしてVHS版『呪怨』『呪怨2』を観た。
ものすごく怯えていたので、音量を聞こえるかどうかぐらいに小さくした。また、できるだけ怖さを軽減するために、手のひらサイズの画面、iPhoneで視聴するという工夫をした。
『呪怨』シリーズは凄まじかった。『IT / イット』で怯えていた自分の頬を殴打したいくらいだ。
特にVHS版。画像の粗さをも味方につけ、恐ろしさのエッセンスにしていた。襲いかかる不幸、いや不平等、いやもうAさんの語彙では表せない。とにかく不謹慎で不愉快で理不尽極まりない。呪いの震源地から遠のいても襲りくる禍々しい怨念よ!

その次の日は『リング』『リング2』を観た。
もちろんiPhoneで。この画面からもしも貞子が出てきても、握りつぶして塩振って食ってやる。そんな意気込みで『リング』に向き合った。
美男美女の緊迫した顔というのはなぜこんなにも恐怖心を煽ってくるのだろうか。
『リング』を観て気付いたのだが、子どもの無邪気さの隙をついて被害が加えられる展開が何よりも苦しくなる。前述したホラー作品たちは恐怖というよりも、もはやAさんに苦痛を与え始めた。

それならば、と洋画にターゲットを変更する。
実はAさんはサスペンス的要素が強い洋ホラーに関しては、むしろ得意分野である。ハンニバルシリーズや『セブン』など、繰り返し観るくらいに好きな映画である。それらはホラー作品として認識していなかったため、「ホラー映画、洋画、おすすめ」と検索して出てきたものを片っぱしから観た。

・『クワイエット・プレイス』
Aさんは洋画にありがちな「正体不明の地球外生命体」が襲ってくる作品に特に恐怖感を感じない。「ちょっとちょっと、その行動パターンダメなやつ!」とツッコミを入れながら観ることができた。特に怖くはなかった。

・『ソウ』シリーズ
公開後、DVDレンタルが開始されてすぐ借りてきて観たのだが、序盤で痛い描写に耐えられず観られなくなった。その後、ソウシリーズはAさんのトラウマ作品になる。しかし、もう10代前半のあまちゃんではない。十数年の時を経て、Aさんはレクター博士を愛するようになったのだ!!フィレンツェを訪れた際には『ハンニバル』の聖地巡礼もした。それならば、ジグソーも愛せるだろう!!
シリーズ全てを視聴し、かなりのグロ耐性がついた。ジグソーという人物にレクター博士のような愛着は湧かなかったが。
シリーズを重ねるごとに、よくもまあこんなに色々な痛めつけ方を思いつくわねえ、と感心し、鼻をほじりながら観る余裕ができた。大きな成長である。

・『へレディタリー/継承』
びっくりするが、それほど「怖い!」という気持ちは起きなかった。ジェットコースターに乗っているような気軽さで視聴することができた。この頃には完璧にホラー映画への耐性がつきはじめていた。
(ジェットコースターを「気軽」と表現するあたり、もう何かがバグりはじめている)

Aさんは洋ホラーを片っ端から観ていて、キリスト教、悪魔崇拝、地球外生命体、などの日本で暮らしていると馴染みのないものが起因してホラー要素が展開されるストーリーに恐怖をあまり感じないことに気づいた。
しかし、ホラーやグロテスクな映画でまま起こる、女性が性被害に逢う描写や子どもが痛めつけられるシーンはものすごく苦手である。苦手を通り越して、噴火した火山のような勢いで怒りが湧いてくるので、加害者(大抵の映画で弱者を痛めつける登場人物は酷い目にあう)に対して「なるべく苦痛を伴う感じで死んでくれ〜」と呟くことにしている。
そうすることでホラー、グロ映画を観る際、心の治安を保つことができるのである。

さて、ではアジアンホラーに関してはどうだろう。
Aさんは近年話題なった『呪詛』をはじめ、アジアンホラーの金字塔と呼ばれる映画をとりあえず観漁った。
『呪詛』を視聴する前に、Xにて例のマークがAdobe社のソフト、Illustratorのデフォルトで入っているブラシで描かれたものだと分析した投稿を見てしまった。それ故に、鼻をほじり耳かきをしながら「ああ、まあ、イラレのデフォブラシで描いてるから怖くねーわ」と余裕を持って観ることができた。

そんなAさんが恐れ、未だに観ることのできない邦ホラーがある。小学生か中学生の時にテレビで放送されたのを観てから、しばらくエレベーターに一人で乗れなくなった。なんなら今も一人で雰囲気のあるエレベーターに乗るのが怖い。
勘の良い人ならお気づきであろう、そう、その作品とは『仄暗い水の底から』だ。


どうしても克服できない作品たち

前述の通り、『仄暗い水の底から』は言うまでもなく今もAさんの心に深い影を落としている。もうどんな話だったのかはっきりとは思い出せないものの、克服しようとする気すら起きない。はっきり言って、あのようなものを民放で放映した罪はとても大きいと思う。Aさんと同世代の人たち(あ、年齢バレるわ)はテレビロードショー放送時の、緊迫したお茶の間の雰囲気を今も思い出せるのではなかろうか。

これだけホラー・グロ耐性がついても、もう二度と見たくない、なんで見てしまったのだ、と後悔している作品が他に二つある。

・『残穢』 どこまで襲ってくる「穢れ」という名の怨念
言わずと知れた小野不由美先生のホラー小説『残穢』の映画版である。
正直これは先に小説を読んでいたら「映画そこまで怖かった?」となる、ホラー好きは多いのではなかろうか。Aさんも小説から入ったため、映像でそんな怖くなることあるかしらん?と考えていた。
しかし、怖かった。とにかく怖かった。竹内結子さんの声のトーン、語り口調、そして「穢れ」のある土地の歴史を遡っていくときの映像のおどろおどろしさよ。
もっと詳しくどのように怖いのかを説明したいのだが、「怖い、とにかく怖い」という感想しか出てこない。本当に怖いものを怖いと説明するとき、人はここまで語彙力を失うのか。

Aさんはいわゆるフリークス、見せもの小屋・奇形・異形のようなコンテンツが大好物だ。
江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』や『狂つた一頁』をピュレグミを食べながら鼻歌を歌いつつ観ることができるくらいに、脳みその回路がバグっている。小説や漫画作品であれば丸尾末広先生や沼正三先生の作品を好き好んで選び取る、生粋の奇怪好きである。
そんなAさん、同系統にカテゴライズされてもおかしくない、「座敷牢」にはなぜか並々ならぬ恐怖を抱いてしまう。なぜあらゆる同種の系統に抵抗がないのに、「座敷牢」にだけここまで反応してしまうのか。自分の心の蓋を開けて分析しようとしたこと数知れず。しかし怖くて怖くて、「あ、これ以上考えたら眠れなくなります。朝も昼も夜も恐怖に支配されます」と心が危険信号を出すのである。

そんな訳で、Aさんは少しでも『残穢』の映像描写が思い出すことがあろうものなら、スマホに保存してある古屋兎丸先生のちょいエロギャグ漫画『π』の一番笑ったページの写メを眺めることにしている。なんてバカらしく面白いのだ!ありがたい!

・『ムカデ人間2』  メタ的要素から繰り広げられるモノクロの狂気
よく「二度と見たくない映画」として挙げられる『ムカデ人間』だが、Aさんは三回見ている。面白い面白くないという視点ではなく、「ここで逃げられたのでは?」ポイントを探すのが好きなため、繰り返し見てしまっている。
グロさなどは特に感じない。ハイター博士の逸脱した欲求と狂気を、「やだっ、怖い!」などと思うことも特にない。「そういう探究心ってあるよね」と同調してしまうくらいだ。

Aさんはこの手の監禁パニックホラーを観るとき、どうしても「いやあ、ここで逃げられたんじゃないか?」という視点を持ってしまう。

このような視点を持ってしまうのには明確な心当たりがある。Aさんの母は旅行でホテルや旅館などに泊まると、年端もいかない私たち兄弟に「非常口の確認」を真っ先に確認させていた。部屋について荷物を置くと、廊下へ出て非常口の確認をさせられ、非常口案内の看板の前に並ばされて、「私たちが泊まっている部屋はここで、非常口はここです」と説明される。そしてそれを復唱させられ、非常時に部屋から最短で逃げるにはどうすればいいか、というのを教えこまれていた。
これはAさんの母が医療従事者であり、災害や緊急時に現場へ向かって支援する登録をしていたから、子ども達にもそのような教育をしていたという。
母はいついかなる時も、常に医療用手袋とマスクを持ち歩き、急病人がもしも現れたら救助する姿勢を持っているような、ちょっと過剰に石橋を叩きすぎる人間であった。

その性格をAさんは見事に引き継ぎ、医療用手袋やマスクはもちろん、裁縫道具を常に持ち歩いている。最近だと簡易トイレ三回分もポーチに入れてある。
なぜに裁縫道具?と思っただろう。Aさんはドラマ『LOST』を見た時、失血死の恐ろしさを知った。もしも自分が血がドバドバ出るような傷を負った時、タオルやベルトでの止血などがつゆも役に立たないことを学んだのだ!
ではどうすれば生き残る可能性が高くなるか?『LOST』でもやっていた通り、傷口を縫うことである。Aさんはもしもの時に傷口を縫うためだけに裁縫セットを持ち歩いているのである。きっとこれを読んでいる諸君、「Aさんみたいな人間ってドラマとか映画で一番最初に死ぬよね」と思っているだろう。しかし、実際のところ結局Aさんのような人間がリアルでは最後に生き残るのだ。備えあれば憂いは極限に減るのだ。間違いない。いや、間違いであったら困るっ!
おめえ、素人なのに傷口縫えるのか?とも思っている方いるだろう。安心して欲しい、ネットや医療本で履修済みである。極細の刺繍針も所持している。一つ問題なのは、Aさんはタバコを吸わないため、消毒するためのライターを持っていないことだ。明日からライターも持ち歩くべきだろう。

ほら見ろ、また脱線したぞ。
そんな訳でAさんにとって『ムカデ人間』を観ることは、宿泊施設で避難経路を確認する作業とそう変わらないのである。
「こうしていたら助かっただろう」「こういう言動を慎んだ方がいい」「他人と共闘する時はある程度、他人が愚かであることを念頭に入れて自分だけ助かる方針で行こう」などと不謹慎なことを考えながら監禁パニックホラーを観ると恐怖は半減する。作品として面白みを半減以下になるだろうが仕方がない。

そんなAさんが同シリーズの『ムカデ人間2』が無理なのは、もう明快だ。一言で表現できる。
主人公マーティン役のローレンス・R・ハーヴィが生理的に無理なのである。怖い。とにかく怖い。
悪意よりも興味本位が先行して行動を起こしているのも怖さを増長している。もっと言うと、モノクロームの映像が、Aさんの無駄に培われた想像力を最大限に発揮させてしまうのだ。
どんなに勇敢さがありパニックな状態に慣れていても、「生理的にこの人怖い、無理」という感情の方が勝ってしまうと思考が停止する。Aさんが今まで母から伝授されたスーパー医療職流危機回避メソッドも、「生理的に無理」の前ではなんの役にも立たなくなるのだ。
そんな訳で『ムカデ人間2』のマーティンを思い出してしまいそうな時は、餅を1日に9個(その他に3食きっちり食べていた)食べて10キロ以上太った時の、自分の写真をスマホで見るようにしている。
フィクションであるマーティンのした行為よりも、1日に餅を9個食べていた自分のノンフィクションの方が恐ろしいのだ。


さて、今回も冗長な内容を挟みつつ、長文の記事が出来上がりました。
Aさん、目下の恐怖は、夫のお母さんが今年も送ってくれた無添加手作りの美味しすぎる餅を食べすぎてしまうことです。
切り餅一個でご飯茶碗2膳。それを一日9個食べていた恐ろしさは、並のホラー映画より怖いはずだ。
この歳で一ヶ月で10キロ太ると、体重を戻すのに一年以上かかると身を持って知った数年前。午前中のみ餅を1日に一個まで食べていい、という縛りを自分に課すことで、術式の強度を高めているAさんです。(呪術廻戦完結おめでとう)

この記事、かなり前に書いたのを加筆修正したので、今年中にまとめの記事をもう一本投稿できたらいいな、と考えております。措置入院のことをね、書かなければね。
それでは、年末年始を仕事に捧げるAさんからのレクイエムでした。では!

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