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(朝読で読みづらいシリーズ)「洗脳大全」感想
朝読で読みづらいシリーズとは・・・
朝読で読みづらいシリーズとは、本のタイトル的に学校の朝読の時間に教室の真ん中(に限らずとも良いがともかく誰しもが公共の場)でブックカバーなしではちょっと読みづらい、しかしそれを理由に読まないのはもったいない良書を紹介するコーナーである。
今回紹介する本の情報
タイトル:「洗脳大全:パブロフからソーシャルメディアまで」
著者:ジョエル・ディムズディール 翻訳:松田和也
出版社:青土社
「洗脳大全」感想
洗脳というと、特例のイデオロギーにいた人間を別のイデオロギーの思想に染めるといった、どこか政治的イメージがついているように感じるが、近年の刑事事件などでも取り沙汰されているマインドコントロールもこの本は扱っていると思う。近代の「洗脳」研究の黎明期から、その研究を発展させるきっかけになった犯罪事例を取り上げ、その歴史と分析を行っているのが本書である。
「そんなに辛いなら、どうしてそこから逃げなかったの?」
側から見ればそう言われるような環境の職場や学校に、それでも留まり続けて自滅を待つ人々と、いわゆるマインドコントロールにより自由意志を剥奪された人々との間にはどれくらいの心理的距離があるのだろうか。職場のハラスメントや学校のいじめに対して、被害者が声をあげたり、対抗手段、逃避行動をとることが容易にできない状況をマインドコントロールされていたからだという人はほぼいないだろう。しかし、その状態は明らかに正常な精神状態とは異なる、洗脳状態と正常な状態とのグレーゾーンに位置するのではないだろうか。
ある意見とは異なる意見が存在していることを確認できること、自分の意見が正しいと言ってくれる人がいること、最低限の生理的欲求が満たされること、これらの環境を全て失うか、または失われることが想像できるときに私たちはその狭い世界で絶対的な存在として君臨する誰かの理不尽な命令にどこまで対抗することができるのだろうか。
「洗脳大全」を読んだ後の感想はそんなところだ。
この本を読んでる中で思い浮かんだのは、昨今に起きたマインドコントロールを囁かれた不気味な事件ではなく、もっと身近な職場や学校でのいじめやハラスメント、その結果の不登校や精神疾患、さらには職場ぐるみでの不正や隠蔽である。事の発端はそれぞれあるのだろうが、どうしてそれが被害を拡大させ、公の発覚までに時間を要するのか、あるいは今もなおその一部が隠され続けるのか。その一つに日本社会の逃げ道の少なさがあるのではないかと感じる。
「学校でいじめられたら転校すれば良い。」これが果たして、どれくらい簡単にできるだろうか。転校が可能だとしても、その手続きに加え、学区の都合などで引っ越しも必要になるかもしれない。とにかく1日2日で現状変更が可能なものではない。
「職場でハラスメントを受けたら、不正を見つけたら、会社を辞めればいい。」辞めてどうするのか。転職先は保証されているのか。経歴の空白を嫌う日本社会で行くあてはあるのか。不正を訴えた時、会社に居場所はあるのか。その居場所を法が守っても、身近な人間は守ってくれるのか。
加害者側に多くの責任があるとしても、加害行為を助長し、被害者が逃げた先に未来がないと思い被害について沈黙する構図が、この社会にはあるのではないだろうか。たまたま居合わせた場所で脅威に遭遇した時に、その場所で破滅するか、事が過ぎ去るのを待つか、逃げた先で破滅するか、そんな選択肢しかないような社会にはなっていないだろうか。私たちこそが、そうした社会を作ってきたのではないだろうか。ここまで極端でなくとも現実はそうなのではないかと思わせるような雰囲気は、どこかに漂っている。
洗脳に対する研究が直ちに日常生活に大きく関わることはないだろう。特殊な環境に置かれた時、私たちの心に何が起こるのかを知っているかどうかで、明日の生活は変わらない。しかし、そうした「関わりのない」研究で見出された何かが、私たちと隣り合わせの脅威にさらされた人々が出す症状と類似していたら、その瞬間に関わりのある研究に化けるのである。
ちなみに「洗脳大全」の冒頭には、「洗脳」研究はそれほど期待されるような分野でなかったことが著者の過去の会話を交えて書かれている。
(執筆:うたたん総研 研究員B(総研内読書サークル所属))