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トキエは泣いている。薄暗い納戸の奥の、紅い鏡掛を開いた鏡台の前に座り、泣きながら化粧をしている。「おかあちゃん」 幼い私はトキエに纏わり付いて、その名を呼び続けている。戸外から蜜柑畑に行く父の呼び声が聴こえて来る。町育ちのトキエには馴染めない農家の日々と、父への精一杯の抵抗。「おかあちゃん」 私はいつまでも呼び続けた。 まだ日差しの強い秋の日に、私はトキエに連れられて何処かの保養地に向かっていた。トキエと私は手を繋いで列車に乗り、手を繋いで畦道を歩いた。見上げると、帽
ひつじ雲はあんなに夕陽に映えて 街の建物はみなオレンジ色に染まり 見知らぬ異国になってゆくのに 君はやわらかに目をつむって まだ見ぬ海の語りに耳を傾けている 僕には微かにしか聴こえないから 時が夕凪の空へ溶けてゆく やがて動き始める風を追って 世界に刻まれた悪戯の行方を探す いとけない子ども達の夜が明けたら 君と初めてのように手を繋いで 冷たい朝の草原を走ろう 天測法が導く旅の果ての 見晴らしのよい岬から遥かに望む 海の開演に間に合うように
海の鉱石は どこにあるのだろう 潮水 浜辺の砂の中 海底の岩窟 サンゴ礁 松毬魚の眼球? 独りぼっちのエメラルドグリーン ずっと見惚れていたいけど 視線は波にさらわれて 浮島の両脚のように揺らめいて 最後にいつも 僕のもとに還ってくる 海の鉱石に 閉じ込められた日々 遠いイノセンスの光景 僕に残された忘却の結晶は 白い波頭に砕かれて 群青色の大渦に巻き込まれ 羽ばたく飛び魚になって 夏至の空高く ひと筋の直線を引いた こっち側と 向こう側に離された 空が潮に流されて