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江戸屋敷に飛脚を立てるべし!(其の参)
それからすぐに僕らは、僕の父上、母上、そして姉妹がいる屋敷へと移動した。父上は、僕の落ち着いた行動と判断に何度も頷いてくれたんだ。僕の話を聞きながら、筆に墨を含ませて父上は言った。
「江戸屋敷に飛脚をやらねばならぬ。政立、私が文章を考えるから、お前はそのとおりに書きなさい。寺子屋で習っただろう」
「あっ、はい」
僕は背筋をしゃきんと伸ばした。
「おいおい。お前、文字を書けるのか?」
まったく猫又ときたら!ひげをピクピク動かしながら、僕を下から眺めて目を細めるんだ。僕は猫又と目を合わせることはせずに、文字を書くことに集中した。猫又はぷいと僕のそばを離れると、自分の身体をぺろぺろ舐め始めた。
「さて。今晩、四ツ時。何者かは知らざれども、にわかに発砲、乱入。ご城下は、あらまし焼き払い、死傷者これあり。よって……、よって……。おい政立、何をぐずぐずしているんだ」
僕の頭は、湯が沸いたようにシューっと煙を出しているようだった。父上の言葉が頭に入ってこない。溢れそうな何かがチャプチャプ波打ち迫って来る。
「ち、父上。僕は寺子屋で字は習いましたが、一筆啓上くらいしか書いたことがないんです。発砲?乱入?どのように書きますか?」
「ええい、それじゃあ、やはり渡辺さん。政立の代わりに書いてやってくれませんか?」
「ええ!私が?これ、見てください。手が震えて……」
実は最初、父上は文字を書くことを渡辺さんに頼んだんだ。だけど渡辺さんときたら、手が震えてしまい書けなかったんだ。父上は苛立ちながら僕を見た。
「政立、いいから書きなさい!」
「ニャハハハハハ!」
振り返ると猫又が笑い転げている。
「お前、このっ!」
僕は失敗してくしゃくしゃに丸めた紙を投げつけた。
「癇癪を起すな!」
僕は父に叱られた。ぐずぐず泣く姿を見られるのは恥ずかしかった。しかも、みんなには猫又の姿は見えない。僕にだけあいつの潰れた声が聞えるんだから、腹立たしい!
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「死傷者これあり。よって飛脚をもって、ご注進申し上げ候の条。援軍、奉り願い上げ候、以上。さて、江戸屋敷にこれを届けるため、飛脚をやらないといけないな」
父上は腕を組み直してみんなを眺めた。
「飛脚?えーっと、誰がですか?」
そう言う渡辺さんは、父上から目を逸らしていた。心なしか小さく見えるのは、気づかないように後ずさっていたからだ。
それから少しの間、僕らは誰が江戸屋敷に行くのかと揉め始めた。恥ずかしいことだとわかっていたけれど、誰も快く引き受けようとする人はいなかったんだ。結局のところ、古くから天野家の組合だった弥五左ヱ門さんと七兵さんに折り入って頼み、行ってもらうことになった。
でもやっぱり、古くからの組合とはいえ、二人に押しつける形になってしまい恰好が悪い。それでついには、僕も一緒に行くことにしたんだ。
「なんだか腰が引けてるなあ。武士がなんてぇざまだよ」
屋敷の外まで見送りに来てくれた猫又が僕に言った。
「だって僕、元服もまだなんだよ?」
すると猫又は、にゃごにゃごと顔を洗う手を止めた。
「そうか。じゃあここはひとつ、元服もまだの子どもに免じて助けてやろう」
猫又は、すっくと二本足で立ちがると、フンと鼻から息を吐いた。
「お前って奴は、どうしてそう嫌な言い方をするんだ」
僕はムッとして言い返そうとした。猫又は僕のことを、ぐいと袴を引っ張って黙らせた。
「うるさい。人の命がかかっているんだろう」
雲が切れた。いつの間にか雨が止んでいる。猫又は、雲間から差し込む月光を浴びて、黄金の瞳をカッと見開いた。ブゥーッと毛を逆立てる。その逆立てた身体は、どんどんどんどん膨らんでいった。
呆気にとられて、僕はただ見上げるだけだった。猫又は入道のように大きくなって、朱と金の立派な着物を着て、妖気のような煙をシュンシュン漂わせた。
「俺の名は猫又。人間は俺のことを化け物といって恐れるが、俺はただ不思議の力を操れるだけだ」
腹に響く太い声だ。前足からぽうっとキセルを出した。真赤な口から吐き出した煙は、薄紫色に漂って、僕と弥五左ヱ門さんと七兵さんの三人を包んだ。
「わあ!」
思わず声をあげた。
「武士が妖怪相手にうろたえるんて見たくないね。ええと、今が丑の刻……」
猫又は気だるげに煙を吐き続けた。
煙に包まれた弥五左ヱ門さんと七兵さんは、書簡を持ったままカクッと眠ってしまった。幽霊のように両腕をだらんと垂れている。煙はシャボン玉のように丸くなって、僕らはそのシャボン玉に包まれて宙に浮かんだ。高く高く、凧よりも高く浮かんだところで、猫又はひと言。
「江戸屋敷に急報の飛脚ー!!」
ビリビリと震えるような大声を出して、まるで怒った蛇のようにシャーッ!!と吠えた。すると、僕らを包んだ煙のシャボン玉は、江戸の方角に勢いよくピューッ!と飛んでいった。
「ええええええ!?」
驚いている僕の耳元で猫又の声が響いた。
(まあすぐには援軍は来ないだろうがよ。こっちは妖力を使っちまって、毛も抜けるっていうのに)
ぐえっぷと毛玉を吐く音が聞こえる。
(帰りも煙に包んでやるよ。あとはそれっぽく動いてくれ。俺は少し眠る)
そこで猫又の声はふっと消えた。いったいどうなるのだろう!弥五左ヱ門さんと七兵さんは本当の幽霊みたいだ。ゴゴゴゴと低い唸り声のような風の音が聞こえる。
すると突然、強い力で引っ張られるかのように身体が傾き―――
「わあ!!」
僕らはもみくちゃになって、地面に転がり落ちた。ああ……もう嫌だ。これじゃあ、猫又に振り回されているようなものだ。僕はくらくらする頭を抱えながら起き上がろうとした。誰かがこちらに走って来る。きっと江戸屋敷の者たちだ。僕は声を絞り出した。
「荻野山中藩より、ろ、浪人が討ち入り……。ご、御援兵奉り願い候」
もう恰好悪いったらない。
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![なかむら詩子](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/137111898/profile_a739752b660570bb399f59c823cc5b45.png?width=600&crop=1:1,smart)