【ゲ謎考察】沙代の「正解」はどこにあったのか?
はじめに
2024年8月11日に「『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』シネマ・コンサート」を鑑賞してきました。オーケストラは格好良くてアナウンスは可愛くて、席も良かったしもう最高! それに、映画館や自宅とは違う環境で鑑賞したことで、何度も見た作品のはずなのに新たな発見がありました。
沙代の話をすることにためらいを覚えてしまうゲ謎ファン、多いのではないでしょうか? これは「だれかに過度な不快感を及ぼす可能性のある衝撃的なコンテンツ」になってしまうかもしれないと、記事を書いてて不安になりませんか。私自身にはその傾向があり、沙代について深く考えることを避けていたことに気がつきました。この記事は沙代の「正解」を自分なりに考えるために書きました。
⚠️以降この記事には必要な場合に限り、性的な話が含まれます。注意はしていますが、表現が露骨に思われて不快感を覚える方もいるかもしれません。
目次
1.水木との関わり方
沙代というキャラクターの役割について考えたとき、もっとも重要なのが水木との関わり方についてでしょう。2024年8月16日の「ひろしまアニメーションシーズン2024(HAS)」では、監督の古賀豪さんにより水木と沙代の関係がこのように語られています。
当初のシナリオから二人の関係に変更があったことはアニメージュで脚本の吉野弘幸さんからも明かされています。
古賀さんと吉野さんの感覚はごもっともで、映画『八つ墓村』では水木と沙代のような関係の男女が深い仲になりますよね。
(1)恋愛関係にならない
座敷牢でゲゲ郎の妻の写真を見たときの反応から、水木の恋愛対象は女性なのでしょう。道端で鼻緒を直されているときの反応から、沙代の恋愛対象は男性なのでしょう。沙代は次々と積極的なアプローチを仕掛けますが、水木がそれに色気を感じる様子は最後までありませんでした。墓場でゲゲ郎が「あの子は本気じゃぞ」「人の真剣な気持ちをもてあそぶな」と諫めているとおり、沙代は真剣だったのに、水木は真剣に応えるつもりはありませんでした。
(2)一人の人間同士として
ここで考えたいのが、水木が真剣に取り合っていないことに沙代自身は気がついていたのか? という点です。地下工場で「龍賀一族に近づくために君を利用しようとしたんだ」と打ち明けられたとき、沙代は耳を塞ぎ頭を振っていました。あれはそんなこと知りたくなかったという反応ではなく、どちらかというと気づいてはいたけれど聞きたくはなかったという反応ではないでしょうか?
シネマ・コンサートで印象的だったのが「イヤよ!」という沙代の拒絶の強さでした。音楽が独立している分、セリフも立って聞こえてくるんです。
「どんなことをしても償う。だからこんな村を出て東京へ行こう」。それが沙代に提示できる水木の最大限のオファーでした。つらい身の上を知り、何人も殺めたことも知ったうえで、自分も同罪であると言い切った水木の真剣さは沙代にも伝わっていたはずです。なのに答えは即座にノー。
沙代の望みは「自由に生きること」ではありませんでした。本当の望みは誰かが「私のことを見てくれる」ことでした。水木は龍賀の名前しか見ていないと気づいていたし、時貞も龍賀の血しか見ていなかったのでしょう。たとえ共に東京へ行ったとしても、水木は自分のことを見てくれないかもしれない。そんな予感が沙代にはあったのかもしれません。
その予感は的中し、水木が目を逸らしたために沙代は一縷の望みを絶たれるわけですが、ここのすれ違いが絶妙だと思います。水木は相手が沙代だから目を逸らしたわけではありません。誰かを愛しいと思える器はないと自認しているため、その望みに応えるのは自分には無理だろうと想像してしまったのでしょう。沙代もまた相手の水木に絶望したわけではないと思います。あれはこれから先も誰にも見てもらえないだろうという自分自身への絶望でした。どちらも問題は相手にではなく、自己認識にあるのです。
(3)色っぽい雰囲気にならない
アニメージュ2024年8月号では、シナリオでは19歳くらいだった沙代の年齢が、完成映像では17歳くらいまでに下げられたことが明かされています。
だから沙代と水木は色っぽい雰囲気になりません。露出した肩に手を置いたテラスでも、手を繋いで歩いたトンネルでも、「東京へ行こう」と言ったベンチや地下工場でも、水木には沙代に対する性的な下心がまったく感じられません。これは愛しいと思えるかとは別の話だと思います。
(4)土俵に立たない効果
時貞のしてきたことを連想させないためのこの調整には、水木の印象を良くする効果がありました。しかし結果的にそれによって、意図したところではなかったかもしれませんが、沙代の印象も良くなっていると思います。
水木が沙代に性的な魅力を感じているように見えていたら(悪く言えば下半身に由来して優しくしているように見えていたら)、沙代はそれを利用しているように見えてしまっていたかもしれません。
水木が土俵に立たないことで、沙代もまたその土俵に立たずにいられるのです。
2.悲しすぎない沙代の死
物語的には沙代はここで散り、水木は生き延びねばなりません。沙代の死が悲しすぎるとその後の展開へのノイズになるし、かといって死んで当然の人物であるかのように描いてしまうと時貞への憤りを共有しづらいです。
(1)時弥との関わり方
この機微の調整に一役買っているのが、両者による時弥の扱いの差だと思います。水木は沙代に何か提案するときは決まって時弥の存在にも言及します。「今度時弥くんと一緒にいらっしゃい」「僕はあなたや時弥くんを守りたいのです」。しかし、沙代はまったく時弥の存在を気にかけません。「私あなたと行きたいですわ」「私をここから連れ出してください」。水木のなかで時弥は保護対象ですが、沙代にとっては守るべき相手ではないのです。
極めつけがベンチ前での会話でした。庚子をあっさり殺してしまった沙代は、時弥を村に残して出て行くことに何のためらいも見せていませんでした。もし沙代が庚子殺しに少しでも後悔を見せていたり、残される時弥に罪悪感があるような様子を見せていたら、沙代の死は悲しすぎたかもしれません。
(2)音楽が表現するもの
ただ、沙代は時弥に対して初めから冷たかったわけではありません。初登場時には体調に気遣いを見せていました。おそらく沙代は、殺人を重ねるごとに徐々に自分のことしか考えられなくなっていったのです。シネマ・コンサートのパンフレットには音楽的な沙代のテーマについてこのように書かれています。
沙代の名を冠する楽曲は4つあります。
それぞれを聞き比べると、ああ、そういう仕掛けだったのかと理解できます。沙代が水木の前に現れるのは、殺したのが0人(小道)→1人(湖畔)→2人(テラス)→3人(ベンチ)のタイミングなんですよね。だから沙代が登場するたびに、沙代のテーマも徐々に壊れていっているのです。
ミステリーのような推理では連続殺人事件の真犯人には辿り着けないストーリー展開でしたが、見えないモノ(音楽)にそのヒントはあったのです。
3.死んで当然ではない犯人像
シネマ・コンサートをフックにした考察なのでこの記事はここで終わるのが妥当なのですが、もう少し沙代について語らせてください。ここから性的な要素がさらに強くなります。
(1)「龍賀の女の務め」の実態
龍賀家は、時貞より前の代から近親相姦を繰り返していたのだろうと考えられます。なぜなら時貞の先代の当主も、哭倉様を鎮める「呪詛返し」の結界を張っていたはずだから。「優れた霊力」なるものはこの作品世界に実在し、それは本当に「龍賀の血」によって受け継がれてきたのでしょう。
時貞は水木に「美女を抱け」「これぞ人生」と促します。自分の人生がそうだったのでしょう。生涯で何人の美女を抱いてきたかわかりません。思うまま女遊びをしてきただろう時貞にとって沙代は、子孫を産ませたい相手ではあるが性的欲求をかきたてる対象ではないのではないでしょうか。
すると「務め」のつらさが違って見えてきます。「当主に身を捧げる」とは、当主の欲望を満たすことではなくむしろその逆で、その欲望がない当主を勃起させて射精に導くことだったのかもしれません。沙代はなぜ「お父様のお気に入り」だったのだろうと詳細に検討しはじめると地獄ですね。
ただ、沙代は時麿について「私におじいさまと同じことをしようとした」と表現しているので、時貞との時間も同じように無の表情でやり過ごしていたのかもしれません。どちらにしろ吐気を催しますが……。(時麿のあの行動には思うところがあるので別記事を書くかもしれません。)
(2)「務め」への裏鬼道の反応
シネマ・コンサートで乙米が「務め」を語るとき、裏鬼道が顔色一つ変えないのが残酷に感じました。それまであまり気にしたことがありませんでしたが、裏鬼道は「龍賀の女」が「務め」をしていることを知っており、「龍賀の女」もまた裏鬼道に「務め」の存在を知られていることを受け入れているんですね。
哭倉村の真相は多重構造でした。時貞をヒエラルキーの頂点として、階層ごとに得ている情報量が違いました。乙米はマブイ移しの計画を知らなかったし、庚子は時弥が当主になることを知りませんでした。沙代は地下道の場所を知らず、時弥はほぼ何も知りません。
そんななか「務め」という情報は、龍賀一族ではない裏鬼道のような者どもにも公然と認知されているんです。余所者である水木へすら気軽に開示されました。それは誇るべき「栄えある務め」。厳重に秘匿されていない、大したことのない情報。沙代の性的身体もまたその情報と同じように日頃から軽く扱われてきたのだろうと感じました。もしかしたら時弥すら理解できずとも知ってはいたかもしれないと想像すると、沙代の態度の見え方もまた変わってきます。
(3)なぜ狂骨を使役できたのか?
「天才」を自称する時貞の頭脳は本当に冴えていたのだろうと思います。「呪詛返し」をしてきた一族が巨万の富を得たのは、時貞が「M」の発明に成功したからです。龍賀家の人間関係にはまるで詰将棋かのように時貞にとって都合のよい緊張感があり、それにも時貞の思惑が働いていたはずです。
理詰めで考えるのが得意な時貞だからこそ、より「優れた霊力」を持つ子孫を残すために悪魔的な発想に辿りついてしまったのかもしれません。自分の娘に自分の子を産ませてきたのが歴代龍賀家当主ですが、自分の孫娘にも自分の子を産ませようとした当主は時貞が初めてだったのではないでしょうか?
単純計算すると沙代の霊力は時貞の3/4となり非常に強力です。強い霊力をもつ「龍賀の女」が「務め」の強いストレスを受けるのは史上初めてだったのかもしれません。そのために沙代は非常に強力な「依り代」になってしまったのではないでしょうか。狂骨を使役することがなければ、沙代は殺人を犯すこともなかったはずです。「龍賀の女」たちのなかにはこの世に強い怨念を残して死んでいった者たちも多かったことでしょう。積み重ねられた「忌まわしき龍賀の呪い」を一身に背負ってしまったために沙代はあのような結末を迎えてしまったのです。
おわりに
ここまでいろいろ考えてきましたが、沙代が望みを叶えるために取るべき「正解」はどこにあったのか、私には結論が出せません。沙代は誰かに守られるべき人ではあったものの、誰かを守ろうとする人ではありませんでした。ただし、自分自身を守ることを諦めなかった人でもあると思います。
ただ一つ言えるのは、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の大ヒットと水木の人気を考慮すると、作品上での沙代の描き方はこれで「正解」だったのでしょう。水木は沙代の死に過剰な責任を負う立場にありませんし、沙代もまた水木への言動で非難を受ける云われはありません。繊細なバランスが図られており、どこをどうすればもっと良くなると安易に指摘できる箇所はありません。
シネマ・コンサートのパンフレットでは現代パートのラストシーンについて監督がこのようにコメントしています。
沙代はおそらく、村も龍賀も自分も終わらせた後になってようやく時弥のことを顧みることができるようになったのではないでしょうか。そして気づいたのだと思います。時弥だけは自分を見てくれていたではないかと。
「あの子は時弥と妻合わせ今度こそ次の当主を産ませますから」という乙米のセリフがフラッシュバックしてしまうのが本当に最悪なのですが、そういう意味ではありません。龍賀というフィルターさえ外すことができれば、時弥が自分を見る目の中に沙代は「正解」を見つけられたかもしれません。
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