6/10-23 ガチイベ参加の決意表明 詩彩 あい
6/10-23まで、SHOWROOMにて、VTuberスタイルのイベントに出ます。このイベントを見てから、ずっと考えていたことを、ここに記し、決意表明とします。
本当に長いけれど、誰かが読んでくれることを願って。いつもありがとう。
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時間無制限の2週間、絶対に激戦区で、確実に掲載される2位以内って雲を掴むよりも難しい。配信はまばらなことが多くて、6月に入ってからは久しぶりに長時間配信もちょこちょこしているけれど、今年の配信時間はあまり多い方じゃなかった。頑張りきれてない部分が、その罪悪感みたいなものが常に頭の片隅にあって、それでも楽しいことが、続けることが1番だからとその気持ちに蓋をして。実際配信はずっと楽しい。苦しかったことなんてない、と思う。みんなが優しい。誕生日の時にも言ったけれど、本当に感謝しかない。続けることが苦手なあいしゃんが、こんなにも配信を楽しく続けられているのは、みんなが居てくれて、みんなが温かく見守ってくれているおかげだから。本当にありがとうの気持ち。いろんな人に、あいしゃんルームは優しい雰囲気で満ちているね、と言われ、そうでしょう、と自慢げに返す。満足している気持ちは勿論あって、でも時折、ほんとうに?という欲望みたいななにかが頭をもたげる瞬間がある。
自分はあまり、悔しい、という気持ちを持たない。本気で頑張る人に失礼だと思うから。悔しかったと口にしていいのは、本気で頑張った人だけだと思っているから。
じゃああいしゃんが頑張っていないのか、というとそんなことはない。自分なりに頑張っているつもりはある。だけれどそれは、あくまで自分が決めつけた範囲内、で。限界を超えることは無い。体調第一という言葉は耳触りが良く、使い勝手も良い。勿論体調を崩してしまっては元も子もないので、それを大事にすることは何も間違っていないし、むしろ体調を崩してまで頑張るのは本末転倒だと思っている。でも、たまに自分はそれを言い訳にしていると、盾にしていると感じることがある。障害を持っているから、体調を崩しやすいから、精神を患っているから。そういう自分がみっともなく、恥ずかしくみえて、臭いものに蓋をするように、全然関係ないことを考えて、いつも気付かないふりをしている。
そんなあいしゃんをどうしても応援して欲しい、というのはすごく、勇気がいる。というか、恥ずかしい。応援して欲しいと言えるだけ頑張れるのか?という問いに、いつだってあいしゃんは自信が無い。自分の好きなところに対する自信はうるさいくらい声を大きくするくせに、あいしゃんというもの自身にはまるで自信が無い。信用をしていないとも言う。頑張れなかったらどうしよう、ーー期待を裏切ってしまったらどうしよう。期待を裏切ることが何よりも怖い。だから、期待をされないようにふるまう。自分に期待をするのもやめた。自分に裏切られるのはすごく怖いことだから。
絶対に1位がいい、と、難しいかもしれない誕生日のときも、勇気がいった。だけれど、あの時は誕生日だから、ということが出来た。それが免罪符になるわけではないけれど、祝って欲しいという言葉と共に、その気持ちを吐き出すことが出来た。でも今回は?何も無い。ただ、本当に、VTuberスタイルに載りたい。それは現実的に目標を達成する1歩になり得る行為、実績だ。夢のために、と言うのは容易い。だが、それを言うために行動することは、決して容易いことじゃない。
自閉症Vtuberとして配信を始めてから1年ちょっとになる。配信を始めた頃から言っていることは変わらない。最近は少しだけ挨拶の口上を口にする回数が減ってきているけれど、それは決して目標を崩したわけではない。あまり動けずにいる自分に嫌気がさして回数が少なくなってはいるが、その目標は変わらず、心の中にどっしりと構えている。
「発達界のお友達が、もっともっと人間界で暮らしやすくなるための、支援をする会社を作りたい」ーー厳密には、やりたい事業があるのであって、会社を作ることが目標なわけではないが、ここでは割愛する。「発達障害における地域の情報格差をなくしたい」という思いと、「大人の発達障害者がもっと働く喜びを知られるように、そしてそれを受け入れたい企業側がもっとスムーズにかつ気持ちよく発達障害者を受け入れられるように」という思いが大きくある。細かい事業内容まではここで話さないけれど、何年かかっても成し遂げたい目標であり、それをもし成し遂げることが出来たら「私」は初めて何かを成せた人になるのではないか、とずっと考えている。
為せば成る為さねば成らぬ何事も、という言葉が好きで、そして嫌いだ。ずっと頭の中にこびりついていて、「私」を時折苦しめる。
すごいね、と褒められるたびに「まだ何も成してないよ」と答える。そんなことないというお世辞(と言い切るには失礼か)を躱しながら本当にまだ何も成せてないと翳る自分の表情を認識して作り笑いをする。こういうことばかり上手くなった。周りに適応して生きていくのに必要だった技術は数しれない。いい意味で、馬鹿みたいなことだと、そのままでいいと笑ってくれる人はきっと少なくないが、少なくとも昔の自分には必要だったものだった。本当に、今の居場所は温かく、かけがえのないものだと思う。みんなありがとう。こんな文章をこんなところまで読んでくれている時点で、その優しさは、温かさは、かけがえのないものだ。貴方のその優しさは誰にでも備わっているものではない。誇っていい、貴方は本当に心から優しい。少なくとも今この瞬間は、誰よりも慈愛に満ちている。「私」が救われます、ありがとう。
そういうわけで、「私」はそろそろ何かを成したかった。幼少期から周りに何かしらがっかりされては「大器晩成型だから」と諦めたように笑われてきた。それをよくわからず褒め言葉だと受け取り(勿論一部にはプラスの意味で仰ってくれた人もいただろう)、何も考えずにおもむくまま生きてきたのは自分だ。そして数年前、唐突に閉鎖病棟の中で気づいた。何も為さなければ、勝手に成せることはないのだと。このままただ生きているのは、それは死んでいないだけと同じことで、生きているとは言えないのかもしれない、ということも。それでいいと思える人も中にはいるのかもしれない。だけれど、「私」は違った。「大器晩成型」だと言われてきた自分は、大きくなったら何かを成してすごい人になっているものだと昔から思い込んでいたし、実際それをきっとプラスの意味で言う家族からは、少なからず何かしらの期待もされていたのだ。だから疑ったことがなかった、自分がいつか、すごい人になれるということを。でも、一面ベッドと晒されたトイレしかない真っ白の部屋で、このまま何もしなければ何も成せないただの屍になることに気づいた。気づけば、猛烈に何かをやりたかった。
そこからは本当にいろんなことをやった。目標をしっかり定めて、サイトの運営をしてみたり、企業まで出向いて営業しにいってみたり、思い切りの良い常識知らずは躁状態も相まって結構すごいことをたくさんやったと思う。目標に直接関係ないことでも、全てが経験になると知っていた「私」は、興味が向いたことならなんでもやった。手話の勉強もこの頃。今ではかけがえのない武器だ。
2023年、Vtuberとしての配信を始めた理由は、なんてことはない、知り合いがやっていたから真似してやってみたくなった、といったものだった。でもせっかくやるなら全部絡めたい。というか、自分そのままの投影でないと色々と無理だったので、そのままの自分がVになった。詩彩 あいの誕生だ。少しだけ違うのは、これは意識したことだが、あいしゃんは「自他ともに認める頑張り屋であること」、これはバーチャルの世界の自分に託した1つの希望であり欲だった。「私」は人生において怠惰な人間で、頑張れたことなんて片手で数える程しかない。元々、大して結果も出せない自分の努力を認めることは苦手で、嫌いでもあった。努力を認めてしまえば、努力したのに出来なかった、という自分の小ささが目に映る気がして。結果より過程という言葉を綺麗事だと言うつもりは無い。過程のおかげでこれからの未来があるのだから、結果より過程という言葉は何も間違ってはいないのだ。それでも「私」は、過程と結果の蓄積である自分を見ることが心から嫌いだった。閉鎖病棟を出るまでは、自己肯定感なんて母の胎内に置いてきたとさえ思っていたくらいだ。環境もある。仕方の無いことなのだ。
そういうわけで、バーチャルの世界の自分には欲が出た。これは詩彩 あいであって「私」ではないから、だからここにかかる期待は、「私」に対するものでは無いから、そんな戯言を独りでに呟きながら、「私」は「あいしゃん」になったと思う。一応言っておくと、別にキャラを作っているわけでも、多重人格なわけでもなく、あいしゃんでいる時は「私」の嫌な部分を見ないようにしよう、と思った、それだけのことである。そして少しだけ自分を赦して、晒して、「頑張る」ことをしてみようと。頑張り屋のあいしゃんは、「私」の想像を超えて、わりとよく、頑張っていたと思う。でも、新人イベを終えたばかりの頃、気づいてしまった。あいしゃんの頑張りを、無意識に「私」がセーブしていることに。せっかくのバーチャルなのに、自身をさらけ出せずに、怖くない範囲内でしか、頑張らないようにしている自分のことを。
理由はすぐにわかった。そこが居場所になっていたからだった。みんなが本当に優しくて、温かくて、応援してくれて、嬉しくて、みんなのことが大好きで、あいしゃんは、心からここに居てもいい存在なのだと思えた。だがそれは安心と同時に、不安も連れてきていた。期待を裏切りたくない、期待をされるのが怖い、離れられたくない、離れたくない、そういう類の。
まずは配信を続けることを目標にした。B-5ランクの維持であったり、イベントの上位入賞であったり、アバ権達成であったり、都度目標はあったが、無理をしないこと、無理をして全てが嫌になって配信を辞めてしまわないようにすることを最優先にした。元々リセット癖があり、飽き性なのも相まって何でもかんでも突然辞めるような人間だったが、詩彩 あいはもうただの趣味ではなくバーチャルの世界ではあるものの一人の人間で、そこで出会う全ての人達との縁が、かけがえのない居場所だった。なくせないもので、なくしたくないものになっていた。だからまずは現状を赦して、続けることを一番に。
そうこうしている間に、人生初めてのLIVEであったり、ギフトランキング全体2位であったり、有難い家電であったり、かわいいイラストであったり、等身大パネルであったり、秋葉原を駆けるトラックであったり、とにかくたくさんのものを手に入れた。こんな形でも続けていればこんなにもたくさんのものを得ることができると知った。
1年経った。居場所が日常になってきて、きっと壊れないことを知った。ガタガタと足元が不安定になることはこれからもまだあるだろうけれど、きっとどうにかなることを知った。地盤固め、のような。じゃあ次は?
少しだけ、壊してみたい。無意識下でセーブしていた自分自身を、少しだけ、崩してみたい。晒してみたい。その先には何があるのかを知りたい。元々、好奇心が旺盛なのだ。そして、欲があった。【頑張った、と言ってみたい】ーー配信において言ったことがない訳ではもちろんないが、こういう気持ちをみんなの前に晒した上で、言ってみたい。そして同時に【頑張れなかった、と言ってみたい】気持ちもあった。いや、頑張らないつもりはない。イベントに出るからには本気で走る、本当に頑張る。ただ、あいしゃんにどこまで出来るか分からないけれど、分からないから出来るところまで、といういつもの言い訳を零したくない。頑張れなかったら頑張れなかった、と言いたい。頑張れるところまで、ではなくて、頑張った、頑張れなかった、そうやって決着をつけたい。簡単に二分されるわけではないが、そうやって言えて初めて本当の意味で自分を省み、今後に生かすことが出来るように思う。アワードを狙うならそろそろ、そういうことができるようにもなりたい。というのは一旦さておき。
期待を裏切るかもしれない。思ったより頑張れなかった結末が待っているかもしれない。みんながそうと言わなくても、時間無制限のイベントだ、ある程度の結果は如実に現れるだろう。それでも頑張ってみたい。無理かもしれないという気持ちを隠すことなく、ただそれを言い訳にするわけでもなく、希望をもって、イベントに臨みたい。目指すは2位以内、少なくとも6位以内。無理かもしれないという言葉は言わない。胸に奥底にしまって、最後の最後まで諦めないで走りたい。
そうして走り抜いた先で、がむしゃらだけど、めちゃくちゃだけど、大してすごい人間じゃなかったしダメ人間なことに代わりもないけれど、こんな人間がいるってことを、誰かに伝えたい、届けたい。発達障害を持っていて、精神障害者の手帳は2級を持っていて、仕事はなんとかフリーランスでちょこちょこやっているけれどあんまり稼げてなくて、躁状態の時以外はずっと家に引きこもりで一日に数十歩しか歩いてなくて、すぐに飽きるくせにハマったことにはお金があるだけ使うようなダメ人間で、でも、自分で自分の在り方を決められて、誰かに想いを、夢を届けようとしている人間がいることを、みんなに支えられて、少しでも一歩を踏み出そうとしている人間がいることを、そんな想いがあることを、みんなと一緒に、まだ見ぬ誰かに届けたい。
ーー生きていたくないとしか考えていなかったあの頃の私へ、まだ自分をさらけ出すことを怖く思っている今の「私」へ、バーチャル世界の「あいしゃん」が教えてあげたい。
VTuberスタイルでの質問項目がどんなものかはわからないけれど、その想いの一端を筆にのせることはできると思うから。
その想いが、誰かの勇気に、新たな支えに、もし少しでもなれたのなら。烏滸がましいかもしれないけれど、それはすごく尊いことだと思うから。
諦めずに走りきって掴み取りたい。人生の目標達成へ一歩近づき、「成した人」になりたい。何かを成したい、ずっと渇望してやまなかった「すごい人」になりたい。言い訳をせず、頑張ることをここに誓うよ。だから。
6/10から6/23まで。
どうか、応援してくれませんか?
貴方と一緒に、頑張ってみたいです。
2024.06.06.
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