教える時
蟹が届いて、家庭用包丁で刺身に造る。
魚介類の下ごしらえを小さい頃から結構な量してきたから、今でも少しできることだ。
道具はきちんとあっていた方が綺麗にできるし、覚えるのに歪まない。
私も大小の出刃包丁や柳葉、たこひきなんかを使ってきたから、三徳包丁でもどこを使えば刃が通るか動ける。
食べ物の支度なんかは、子どもでは珍しくても大人になると出来る人は多くなる。
珍しくない。
それまでもそんなに得意になってなかったから、大人になっても「みんな適度にやれること」と思ってしまった。
練度はあるのに。
それで、困ってた人にアドバイスして、その包丁の持ち主を怒らせたことがある。
弘法筆を選ばず、ではないが練度が高いということは道具の選別も、道具の性能も理解できているということだった。
それを「みんなやれること」と思っていたのだ。
特に目の前にいたわけでもないので、私の言うまでもないことは言われないまま、相手は包丁を痛めてしまった。
それで持ち主の怒りに、私も怒り、その後一切の交流を避けあっている。
今でも時々振り返って「教える時」の教訓にしている。
教える相手を見ないで伝わることはない。
相手を篩にかけるときは別だが、教えるとしたなら、しっかり相手を見ないといけない。
子ども相手でも大人相手でも、胸に刻む出来事だった。