近所にのさばる怪しい奴ら
「意識が高い」「エモい」「パワハラ」など、
やたら新しい言葉を作って使って、全てのものを言葉で当てはめたがる。
しかもぽっと出の言葉だから使い方も意味も曖昧なのに、意味深なふりをして近所を平然とのさばっている。
以前自分がnoteで書いた文章が、
ある読者に「共感性羞恥」な話という言葉でまとめられた。
「共感性羞恥」、これも最近よく聞く言葉だ。
自分が頑張って面白いと思ってもらえるよう書いた文章が、「共感性羞恥」その言葉だけでまとめられた時、違和感を覚えた。
みんな何かを受けとる時、それが何か、何ものなのか当てはめようとする。
例えば映画を観た時、これはコメディなのか、SFなのか、ラブストーリーなのか、自分が過去に観てきたどの映画と同じジャンルなのか考える。
子どもの頃から車は「ブーブー」、犬は「わんわん」など、モノを何かの言葉に当てはめようとしてきた。おそらくその名残が大人になっても続いているのだろう。
(という勝手な持論を言ってみる)
何かに当てはめないと気が済まないのだろう。
そして自分の知っている言葉で当てはめることで、自分は把握できたと思って安心する。
その一方で自分の知る言葉で当てはめられない時、その対象は「こわい」「気持ち悪い」「意味が分からない」そんな言葉に当てはめられ、理解することを放棄する。
自分はなるべく当てはめられたくない。
無理に言葉で当てはめられるくらいなら、
言葉にできなくて良い。
ただ「面白い」「面白くない」のどちらか思ってもらえるだけで十分だ。
「共感性羞恥」そのような言葉で簡単にまとめられるくらいなら、わざわざパソコンに向かって必死こいて文章にしてお届けしていない。
それならネットの「共感性羞恥エピソードまとめ」とかで事足りる。
それ以外の部分もあるからわざわざ文章にするのだ。
SNSでみんなが思っていることを表沙汰にしてしまう今、何でも言葉で表そうとする。
だからぽっと出の奴らが平然とのさばることができる。
そんな言葉こそ「こわい」「気持ち悪い」「意味が分からない」、信用できない。
それをわきまえた上で言葉は使うべきだ。
でも結局こんなことを書くと、
「マウントをとりたい人」という言葉で当てはめられてしまうのだろうか。
やっぱり言葉は信用ならない。
おわり
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