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政治に対する雑感2-政治「改革」とは何だったのか-

 参議院選挙の当日、普段であれば選挙特番を見て1日を終えるところを、特に特番を見ようと思わずそのままyou tubeを見たりするなどして普段の日曜日と同様に過ごして終わった。それくらい選挙結果に関心が低かったのも珍しいが、選挙結果を見ても予想通りだろうとも感じていたし、実際にその通りの結果となった。

 投票率は52.05%(選挙区)(※1)と過去4番目の低さである(※2)。投票率が低調なのは、野党各党が有権者に顔を向けずセクショナリズムに基づく内向きな態度に終始をしていること、野党の態度と対照的に岸田内閣が安全運転で政治に臨んでいることなどから、政治それ自体に不満はないものの、かと言って積極的に応援する気にもならないので行かなくてもいいという消極的な現状追認の表れであろう(※3)。引用した記事では投票率が上昇した選挙区を強調しているが、接戦区とされた選挙区などが中心で全体としては劇的に改善したとまでは言えない。

 SNS上では野党支持者が選挙分析などをすることでいろいろと論じているが、私は55年体制崩壊以後の野党がどのような経緯で、またどのような理念の下に政党が結党されたか、またどのような姿勢で政治、有権者に臨んできたのか、という本質的なことに目を向けるべきであると考える。民主党政権崩壊後、10年近くが経過して非自民勢力が55年体制以上に無気力で内向きなのは、彼ら自身が政治に対する理念や政策をきちんと提示することができない、ないしはしなかったことの表れではないだろうか。今回は55年体制以後の政治を省みるとともに、55年体制崩壊のきっかけとなった90年代初頭に政治的な論争となった政治「改革」について考察して参りたい。

政治「改革」の本質

 現在衆議院において導入されている選挙制度は小選挙区289、比例代表176の計465人をそれぞれの選挙で選出する小選挙区比例代表並立制と呼ばれるものである。小選挙区の定数が6割強であり、小選挙区中心の選挙制度と言える。

 現行選挙制度以前の選挙制度は中選挙区制度と呼ばれる選挙区の定数を原則3から5とする制度であった。やや大政党に有利な議席配分になるものの現行の小選挙区制度よりは政党候補者への投票率と議席の配分率はほぼ比例的に割り振られる制度であった。55年体制下では中選挙区制度による選挙制度であったが、1958年から1993年の間一貫して自民党が政権党としての地位を保っていた。これは野党第一党の社会党をはじめ他の野党の支持が有権者の支持を得られなかったために政権獲得ができなかったに過ぎない。

 しかし、竹下内閣におけるリクルート事件による政治スキャンダルが発生し政治改革の必要性が強調されるようになると、政権交代がなされないのは選挙制度に原因があるとして、海部内閣から宮沢内閣の間、政治改革の中心は選挙制度改革にあるという意見が主流を占めるようになった。選挙制度改革を巡る自民党内の対立は、宮沢内閣不信任決議案可決、自民党分裂を招き、総選挙での自民党敗北によって細川非自民連立政権の発足につながった。この細川内閣において政治改革関連法案が成立し、衆議院の選挙制度において小選挙区比例代表並立制が導入されることとなった。

二大政党幻想

 だが、鹿児島大学准教授の吉田健一によると、政治改革の代表とされた細川護熙は55年体制を批判しつつも穏健な多党制を主張しており、細川の改革の主眼は地方分権や規制緩和といった政策面に重点があったという。(※4)また、細川連立政権で官房長官を務めた新党さきがけの代表武村正義も積極的に小選挙区の導入を主張していたわけではなかった。政権交代可能な二大政党制(のための選挙制度の変更)を主要な政治家として主張していたのは小沢一郎と細川連立政権以後に短期間首相を務めた羽田孜だけであったとある。(※5)

 その上で吉田は民間政治臨調(政治改革推進協議会)(※6)における二大政党志向について、財界人が保守二大政党制を志向していたのに対し、労組関係者は保守と現実化した社会民主主義政党の二大政党制を志向していたという意味で各々の思惑が異なっていたことを指摘する。(※7)吉田の以上の指摘は日本維新の会の支持者が自民党と維新による保守二大政党制を志向としているのに対し、立憲民主党の支持者が自民党と立憲民主党による保守と進歩(リベラル)による二大政党を志向しているのと共通する。二大政党制志向のボタンの掛け違いは既にこのときから生じていたのである。そして互いの支持者とも自分の支持する政党が自民党に対抗する政党の一角を担うことを望み、もう一方の政党を邪魔だと感じて憎悪するという構図になっているのが実際のところであろう。

 日本における二大政党制志向について吉田は以下のように述べる。

 そもそも「二大政党制」などという制度は、自ずとそのような体制に収れんするならともかくとして、意図して国民や政治家が「目指す」べき体制でも制度では(注.原文ママ「も」が正しいか?)ないのである。(中略)二大政党制を「目指す」主体、その実現に向けて努力するべき主体は誰なのだろうか。国民なのだろうか。政党なのだろうか。実はそんな主体はどこにもいないのではないだろうか。二大政党制なるものは、国民一丸となって目指すべき目標でもなければ、現に議席を得ている政党政治家がそれぞれ示し合わせて、時間をかけて目指すべき「目標」でもないのである。(※8)

その上で、吉田は無理やり自民党に対抗をする政党をつくるのではなく、政策面で折り合える政治家による政党を目指すべきであると主張する。その結果として55年体制のような半永久的な自民党政権が続いたとしても、民意の選択が自民党政権なのであれば、自民党を支持しない有権者もその現実を受け入れるべきであるとしている。また、自民党中心の体制に挑戦するのであれば、日々応援できる政党を自ら作るかそうした勢力を応援することを通して行うべきであって、非自民政党(本文では非自民に括弧がついている)でさえあれば、政権交代によって自民党と異なる政治を行うという考え方を捨てるべきであると主張する。(※9)

野党は有権者に向かい合っているか

 私は吉田の以上の見解に加えて、そもそも野党はきちんと普段から有権者に向かい合っているのかということに目を向けるべきと考える。市区町村レベルにおける議員は大半が保守系無所属議員であり、一部に自民党、共産党、公明党の議員がいるという傾向が強い。もちろん無所属議員の中でも労組の支援を受けるなど立憲民主党系ないし国民民主党系無所属議員はいるだろうが、彼らが生活に身近な市政等において積極的に有権者にアピールする姿をあまり見ない。

 公園の整備、児童、介護を中心とした福祉サービス、公共図書館における本の充実度、上下水道の整備などこうした点で保守政治への対案を提示するだけの政策立案能力は立憲民主党や国民民主党には欠いているだろうし、そもそも地方政治の課題にきめ細かく対応するだけの組織力もないだろう。日本維新の会は阪神を中心に組織化してはいるが、ルーツが自民党の反主流ということもあり、維新と自民党との対立は派閥争いの様相が強い。大阪都構想を巡る2度にわたる住民投票は市民、市政の混乱と分裂を招いた意味で、政治手腕の稚拙さもそこから垣間見える。

 自民党に対峙する政治を目指すのであれば、生活者の視点から自民党と異なる政策立案能力を磨くことが求められる。しかし、現実には地方政治における野党勢力は稚拙さが否めず、全体としては地域の名士を中心とした保守政治という傾向であり、それが結果として国政における自民党の優位にもなっているのではないか。野党が本気で自民党に対峙する政党となるのであればまずは地方政治、とりわけ一番身近な市区町村単位において有権者が何を求めているかという声に応えることこそが肝要だろう。

皆が集まっているイラスト1

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(※1)

(※2)

(※3) 前回衆院選終了後以下の雑感記事を書いたが、今回の参院選後も基本的にこの見解は変わらない

(※4) 吉田健一「平成初期における政治改革論議の本質とは何だったのか」P164~P165

(※5) 吉田「前掲」P165

(※6) 

(※7) 吉田「前掲」P134

(※8) 吉田「前掲」P164

(※9) 吉田「前掲」P166


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