議会制民主主義が問われているー東谷義和(ガーシー)前議員の除名に思う
はじめに
参議院は、ガーシーの通称で知られる参議院議員の東谷義和について、3月15日の参議院本会議で除名処分の懲罰処分とするべきとの決議をした。参議院は、国会法で国会議員に国会出席義務を定めているにもかかわらず、東谷が参議院に登院しないことを問題視し、本人に再三出席を求めることを求めた。しかし、東谷はこの求めを無視し続けた。この無視を受けて参議院は警告の形で東谷に参議院に登院して議場で陳謝することを求めたが、東谷は当初議場で陳謝することを受け入れるとしていたものの、最終的にはこの求めにも応じなかった。東谷は議員としての職責を果たしていない上に、そのことに何も責任感を感じることなく議員の地位を保持し続けたが、世論も国会もこれを許さず除名されることとなった。
少数派、既成政党の問題なのか
東谷が少数政党の議員であったということから、除名を懸念する意見があった。法政大学教授の白鳥浩は、リモートでも議員活動ができるという東谷の主張は国会のルールを無視したものであるとしながらも、除名処分は東谷の名前を書いた有権者の民意を踏みにじるものであり、民主主義の空洞化を招くと主張した。(※1)また、元朝日新聞記者の鮫島浩は東谷が国会登院をしない一連の不誠実な態度、参議院議場での陳謝の求めに二転三転した東谷の姿勢を批判しつつも、与党のみならず立憲民主党や共産党が除名に応じたことは少数派を切り捨てることになり、全体主義の幕開けになると主張した上で次のように結論付けた。
このように、白鳥は東谷の名前を書いた有権者の意志が反映されなくなるとして除名に懸念を示し、鮫島は東谷への投票は既成政治への不満が遠因であり、東谷を除名にしても既成政治への不信を生み出すだけだとして、除名について疑義を呈している。しかし、私はこれらの意見には賛同できない。
東谷除名に関する参議院の姿勢は不適切であったか
まず、白鳥が語った東谷の名前を書いた有権者の民意が反映されなくなるとの懸念についてだが、これについては、駒澤大学教授山崎望の次の意見が妥当であると考える。
山崎によれば、そもそも東谷は自身に投じられた有権者の負託に応えておらず、東谷の国会に登院しない姿勢を国会が黙認するのであれば、議会制民主主義の意義自体が問われることになりかねないと懸念した。山崎は今回の事態を民主主義の本質にまつわる問題と危機感を抱いているが、私もこの見解に同意する。
鮫島が懸念した少数派の切り捨てであるという意見についてだが、私は参議院が安易に除名を濫用したとは思わない。参議院は、まず東谷に出席を求める「招状」を出し、「招状」を無視した東谷に登院の上「議場での陳謝」を求め、これらが拒否されたことで「除名」処分を下しており、除名には相当慎重な姿勢であったと言える。鮫島は東谷が少数政党に所属していたことを強調しているが、登院拒否は自民党、立憲民主党といった大政党に所属する議員であっても同じように批判されてしかるべき性質のものである。仮に大政党所属の議員が登院拒否をしても、大政党の保護下にあることを理由に除名処分とならない可能性は、世論の反発からして著しく低いだろう。鮫島も大政党所属の議員であれば登院拒否をしても除名にならない、とは考えていないのではないだろうか。
もちろん参議院のこれらの一連の流れについて、世論が他人事のように感じる動きが強まれば、参議院が安易な除名の濫用をしたり、大政党に有利な処分を行うように転じる危険性はある。ただ、仮に鮫島がそこまでの危険性を踏まえて除名処分の懸念を主張するのであれば、まずは、政治の堕落を防止するために、有権者一人ひとりが政治に対して常に厳しい監視の目を向けることが必要だということを主張するべきだ。民主主義の原理は、私たち有権者一人ひとりが政治に対し求めるべきもの、また守るべきルールは何かについて常に責務を負っているということを前提としている。政党、政治家の側にだけに政治の責任を求めるのであれば、お任せ政治の枠から抜け出せない状況が続くことになる。私は民主主義を活性化する必要性を支持し、有権者一人ひとりが政治に責任を持つべきという立場から、お任せ政治の枠に留まる主張には与しない。
一人ひとりの有権者の姿勢こそが問われている
今年は統一地方選挙の年である。4月9日には知事、県議会、政令指定都市首長、政令指定都市議会選挙が、同月23日には市区町村首長、市区町村議会の選挙が行われる。すでに知事選については告示がなされているが、そもそも私たちにとって一番身近な政治の問題を扱うべき市町村単位の自治体選挙において近年無投票当選が増加する傾向があり、それに反比例する形で投票率が低下する傾向がみられる。(※4)
議員のなり手不足が言われているが、それは有権者自身が政治を他人事のようにしか感じていないことの表れだ。ともすると政治に対して表面的に「不満」を主張するが、それが自身の生活実感に基づくものではなくメディアなどで報じられる議題設定の延長でしか語れないのであれば、それは政治に対する不満と言えるものではない。
私は今回の一連の東谷現象について、政治をメディアなどによる議題設定の延長でしか語れない有権者の姿勢、それらを追認する私たち一人ひとりが問われているものと考える。東谷現象の問題を解消するために私たち一人ひとりに求められているオルタナティブとは何であるのか。次回より、共同通信の自治体議会議長へのアンケート調査、東京新聞に連載された「まちかどの民主主義」から、統一地方選挙との関連で地方自治のあり方について読者の皆様と一緒に考えて参りたい。
私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1) 2023年3月10日 東京新聞 朝刊 20面
社民・福島瑞穂党首が「ガーシー氏除名」に慎重論…その理由を聞くと れいわ新選組は「危惧」表明:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
(※2)
(※3) (※1)同
(※4)