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憲政の常道(1924~1933)は議会政治と言えるのか①-制度上の問題-

議会政治を阻む障壁

 日本でも欧米諸国のような政権交代が可能なシステムを目指すべきだ、そんな声を何度も耳にする。その際によく比較をされるのが加藤高明内閣から犬養毅内閣までの2大政党による政党政治である。(※1)

 加藤から犬養までの政治が政党政治と言われる所以は、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣を除き衆議院の議会第1党の政党人を中心に内閣が組閣される(※2)ことから、民意を代表する勢力が政権を担うシステムと判断されたからだろう。ただ、当時は大日本帝国憲法(明治憲法)下における政治であり、現在の制度とは異なる機関やシステムが議会政治を阻んでいた。以下それらについて述べていきたい。

1.貴族院

 立法府は政党の権力基盤である衆議院の他に、衆議院とほぼ対等の権限を持ち、特権層である華族などから構成される貴族院が存在した。貴族院は特権層の利害を代表したために、進歩的な法案、政策をしばしば妨害した。

 濱口雄幸内閣のときに提案された婦人公民権法、労働組合法、小作法などの法案は衆議院で可決されるも貴族院で否決されている。これらの法案は不完全ながらも女性、労働者、小作人の地位向上、処遇改善に関する側面を有しているが、貴族院が否決したことは、貴族院の保守的で既得権に固執する体質をうかがい知ることができる。

2.枢密院

 行政を担当する内閣においても、天皇の諮詢に応え、重要な国務を審議する形で内閣に立ちはだかる枢密院が存在した。重要な国務は憲法、皇室典範、条約、戒厳の宣告に関する事項などの他に特に諮詢された事項とあり、枢密院の権限は広範囲に及ぶ。

 枢密院は昭和金融恐慌によって倒産危機に陥った政府系の金融機関である台湾銀行の救済に関する緊急勅令を不同意としたことで、第1次若槻内閣を倒閣させるなど、政党内閣にとって鬼門と言える存在だった。議院内閣制においては内閣は議会にのみ責任を負う形になっているが、天皇の直属の機関で民意の影響を受けない枢密院が存在するため、内閣は議会以外の機関の意向にも考慮することを余儀なくされた。

3.軍部

 軍の指揮権は、明治憲法11条における統帥権が天皇に直属していることから内閣が軍を統制できることはできなかった。この統帥権の独立を悪用した関東軍は軍事力を前提とした満州における既得権益の固守に加え、より一層の権益拡大を画策すべく、張作霖爆殺事件、満州事変を起こすなど、白色テロや中国の主権を侵害する行為に出た。これらの事件は明らかに陸軍刑法違反であり、当然関係者を処罰すべき事件である。しかし、政党内閣は自らの責任を問われることや、軍部急進派、在郷軍人、右翼による脅迫、テロの危険性を恐れ、関係者を処罰せず問題を曖昧な形で処理をした。このことが軍部による増長を招いたことは言うまでもない。

 明治憲法12条に規定された軍の常備兵額(兵員の数など)、軍の編成については解釈上内閣が輔弼という形で関与できるとした美濃部達吉の学説もあったが、これについては必ずしも確立されたものではない。常備兵額、軍の編成は天皇大権に属するものであり、内閣は関与できないとする主張も強かった。そのため濱口雄幸内閣のときにロンドン海軍軍縮条約の調印を巡り混乱し、軍部を増長させる一因となった。(※3)

 陸軍大臣、海軍大臣は非軍人である文官は認められないばかりでなく、この時代では予備役、退役の軍人も制度上は認められていたとは言え、現実には現役の武官でなければ大臣になることはできなかった。そのため、陸軍大臣、海軍大臣が内閣の方針に従わず辞任をした場合は内閣が持たなくなるし、軍部が大臣を出さないときには組閣自体ができなくなる。(※4)そのことも政党側に軍部との妥協を余儀なくされる一因となった。

4.元老 

 元老は憲法上の制度ではなく、あくまでも慣例に基づくものである。しかし、内閣総理大臣の後継に際して天皇に対して候補者の推薦や重要な国務に関わるなど、元老の意向が政界の動向を左右した。この時代における元老は西園寺公望ただ一人であったが、西園寺は憲政の常道に基づき政党の党首を首相に推薦し、政党側の意向は尊重した。(※5)

 とは言え、元老の意向で首相後継が決まるため、政党関係者は西園寺に対してご機嫌伺いをしていた。その意味では政党が自立できていなかったと言える。議会の意思に基づいて首相が決まるというのは明治憲法の制度にはなかったが、議会の意思を尊重した首相の選出という慣例をきちんと確立できなかった一因が元老の存在にあることは否めない。軍部のクーデター未遂である5・15事件後の首相後継では、政友会が犬養毅の後継総裁(党首)である鈴木喜三郎を要請したにもかかわらず、軍部が政党内閣を拒否する立場を崩さなかったことから、西園寺は海軍の斎藤実を後継首相に推薦した。その後も、政党側は何度か政党関係者を首相にするよう画策するも、戦争に負けて軍部が力を失うまで政党内閣の組閣はできなかった。

 以上、概要的ではあるが、議会政治を行うにあたっての制度的問題について述べてきた。次回は、憲政の常道および政党自身に内在する問題について述べていきたい。

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(※1) 私個人は多元的な政治を活かすには、2つの中心的な政党他に様々な利害を代表する小政党が存在することで、特定の政党間での政策のみならず、多元的な政策の反映ができるいわゆる「穏健な多党制」が望ましいと考えている。現在の政党数を考慮しても自民、立民以外に公明、共産という強力な組織政党が存在しており、それらの存在を無視して無理やりに2大政党にするやり方には現実的とは言えない。

(※2) 政治の運用に失敗した場合は、野党第1党に政権が渡り、すぐに解散総選挙を行うことが当時の政治慣例とされた。いわゆる「憲政の常道」と呼ばれるものである。

(※3)  当時の野党政友会も倒閣を目指して統帥権干犯を主張し、政争の具にした。

(※4) 西園寺公望内閣での2個師団増設問題を巡る上原勇作の陸軍大臣辞任、宇垣一成の組閣失敗がその一例である。なお、両方の事例においては軍部大臣現役武官制が徹底されており、制度面においても予備役、退役軍人は陸軍大臣、海軍大臣にはなれなかった。

(※5) 大正期においては高橋是清の総辞職後に西園寺が推薦した3人の首相はそれぞれ加藤友三郎(海軍)、山本権兵衛(海軍)、清浦圭吾(貴族院)と非政党人であり、必ずしも政党内閣論に同調していたわけではないという指摘もある。(粟屋憲太郎「昭和の政党」小学館)

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