山の神
勢いよく地面を蹴る 宙に浮く そしてまた 重力に引き戻される
天と地の間に人がいる
走るということは身体で命の今を謳歌することだ
思想家で宗教学者の中沢新一氏の著書『精霊の王』の中にこんな話があった。
昔、蹴鞠の名人と讃えられた藤原成通は『成通卿口伝日記』の中で鞠の精にあったと記述している 蹴鞠の精は言う
『人の心はたえず思い乱れ、1日のうちに心に浮かぶ思いのほとんどが罪の種子だ。しかし、鞠を好むものは、鞠を蹴ること夢中で余計な雑念もなくなる。やがて、こころの罪は消え良い影響をもたらす すなわち高徳を積むことになる』
鞠に宿った精霊は、普段は樹木の中にいるそうだ。人の気配を感じると木を離れて鞠の中に入り込む 。鞠に精霊がはいることで弾むようなリズム感がそなわって、身のこなしも軽快になる。
その精霊をシュグジとも宿神とも呼ばれるそうだ。
この話を読んだ時、箱根を沸かせた山の神の存在を思い出す。
今井正人、
柏原竜二、
神野大地、
彼らの走りはたしかに次元が違う。
宿神が入ったのかもしれない。
現に神野大地はこう証言している
『神様が最後の箱根に合わせてくれたんじゃないかと思います。僕は神様になれなかったけど、箱根の神が僕を走らせてくれた。』
宿神はいるようだ…
そして、駒澤大学 コーチの藤田敦史氏は2000年12月の福岡国際マラソンで優勝後こう証言している。
『神様は確かに存在する。
そして神様は奇跡を起こしてくれる。
しかし、神様は死ぬほど努力をした者にしか力を貸してくれない。』
今年の東京マラソン、山の神と呼ばれた今井正人、神野大地の二人が厳しい天候の中、MGCの出場権を獲得した。彼らもまた努力の人だからだろう。宿神が入る下地があったのだ。
『努力』という言葉の意味を履き違えてはならない。その言葉はあくまで第三者が他人を評する場合に使われる。自分ではない誰かに向けて使う言葉だ。当の本人は努力だなんて微塵も思っていないだろう。大地を蹴り、宙に浮かぶその中間の世界をひたすら堪能しているのだ。そこに邪念は一切ない。宿神と繋がるということはそういうことなのだろう。天と地の間、人間であることの本質がそこにはある。
最後に
わたしなりの宿神のイメージ、箱根の山、襷の精が、これだ