UT-Basecamp2期振り返り記事(前編)
2022年3月。UT-BASEが主催する自主ゼミ、UT-Basecampが再始動した。
以来、「最先端の教養を、最高峰の講師と。」をキャッチコピーに、文理を問わず次世代を担うための教養を身につけるべく、約30名のゼミ生たちが1セメスター間共に学んできた。
課題図書を通じてゼミ生たちが考えたこととは?
各界のトップランナーとの白熱したディスカッションの内容とは?
その全貌を、2回にわたる振り返りレポートでご紹介!
今回は前編(「学びとは」「メディア」「人工生命」回)をお届けします!
1. ゼミ形態
UT-Basecampでは、欧米の大学で一般的な多読・多議論の授業スタイルを採用。各回に課題図書が設定され、ゼミ生はそれを読んだ上で論点や感想、関連資料などを予習課題として提出する。そして、学生のみでのディスカッション回で綿密な事前準備をした後、講師の方にご登壇いただく本番回を迎える。
2. 「学びとは」回
UT-Basecamp第2期の初回テーマとして設定された「学びとは」。これから半年間のゼミでの学びをメタに捉え、より充実させるための姿勢を身につけるべく、『勉強の哲学』の著者であり立命館大学教授の千葉雅也先生をお迎えした。課題図書を読んでの疑問や具体的な勉強法についてから先生自身の勉強を通じた気付きに関するものまで、学びに真剣なゼミ生たちから様々な質問が飛んだ。
中でもひときわ議論が熱を帯びたのは、インテリの社会の中での立ち回り方や、ノブレス・オブリージュについての質問である。
という千葉先生の言葉は、多くの学生の胸を打ったように思う。
止まらない質問と挙手に、「千本ノックみたいだね」と笑いながらも先生は丁寧にゼミ生に向き合ってくださり、最後にこのようなメッセージをくださった。
以後続く他のテーマ回においても、ゼミ生が千葉先生の言葉や課題図書に関する議論から得た考え方を用いる場面が多く見られたり、講師の先生の説明される概念に「これは勉強の哲学で言う『環境のノリから脱する』ことに通ずる!」などの反応が見られたりしたことからも、UT-Basecamp2期での学びに与えた示唆の大きな回となった。
3. 「メディア」回
誰もがジャーナリストとなり得る一方、フェイクニュースも蔓延るソーシャルメディアの時代。権威を失いつつある伝統メディア、そして勃興しつつあるデジタルメディアに求められるプロフェッショナリズムや公共性とは一体何か。NewsPicksの初代編集長を務めた、日本メディアの最前線に立つ佐々木紀彦氏と討論した。
多様な形式のジャーナリズムを経験するとともに、ビジネス的な側面からコンテンツを開発し、縦横無尽の具体例を持ち出して論を展開する佐々木さんの姿には、商業ジャーナリズムを追求するメディア人のモデルが重なって見えた。
佐々木さんによれば、「職業(プロフェッション)としてのメディア」で大事となる能力は三つあるという。
第一に、何らかの分野での専門性。アカデミズムとプロフェッショナルジャーナリズムの接合が肝要となっている。
第二に、なんらかの表現の手段に対する卓越性。文章や映像、音声など、何かしらの手法で長けていることが大事になる。YouTubeやTikTokをはじめとした映像や、Podcastなどの音声の時代。双方の表現方法を習得していることは大きな強みとなるし、自分を表現するスキルがないと、世論形成にも関われない。
第三に、距離の置き方。二極化が助長されやすい環境において、主観的な自分と客観的な自分を常に両立し続けるスタンスが大事であると力説した。強いメタな自我をたて、何にも取り込まれすぎないようにすることが、信頼されるジャーナリストに枢要であるとした。
確かに、商業ジャーナリズムと公共性の両立は難しい。けれども、各ジャーナリストが高いプロフェッショナリズムを胸に、追求し続けなければならない課題である。ゼミ生は、真実の探究という崇高な理念をもとに自らコンテンツ制作者、メディア人として情報生産に携わることの重要性を認識した。
4. 「人工生命」回
「人工生命」。人工知能の存在感が増す現代において、人工知能の一歩先の未来を覗き議論しようと設定したテーマである。多くの学生にとって初めて触れる概念が多い中で、それらの「異物」を吸収して一気にアウトプットに持っていくという挑戦的な内容であった。初めて触れる対象とどのように向き合うのか、「学び」の姿勢にも拘るゼミ生にとってその真価が問われる時間でもあった。
池上先生との議論では、自分が立っている前提そのものを見つめ直すことになった。
人間の絶対性に疑問を投げかけ、人工生命主体の社会すらも想像させてしまう池上先生のビジョンにゼミ生の価値観が揺らいだ。「確かに人間の認識枠組みに縛られていた」「人間がいくら愚かでも、人間という枠組みから脱することなく向き合う方法もあるはずだ」。「納得感」と「違和感」をぶつけ合う。自分が本当は何を大事にしたかったのか、「自分(エゴ)」と「社会」の間を価値観が彷徨う。
大事なことは、相対化されて崩れた自分の価値観を、再び組み立て直すことなのだろう。ゼミでの議論は、その際に良い軸を与えてくれるものである。そして、再び組み上げた時に自分がなお信じているものこそが、己の人間性をよく示す核となっていく部分となるに違いない。
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