マリノスという生き方。-30周年に寄せて-
ある日突然今年18になる娘がこう言った。
「私、もうマリサポじゃないもん。」
今からちょうど30年前。1993年。僕は20代後半だった。
バブルはすっかり吹き飛んではいたけれど、軽薄に生きていてもなんとかなる世の中だった。
僕は当時流行の発信地と言われた東京ベイエリアの商社に勤めていて、売り物だったイタリアの車を「リース」という名目で乗って毎日通勤する軽い毎日を送っていた。
そんな年にJリーグは生まれた。「ブーム」だった。当然、ブームに乗った。それがきっかけだ。たったそれだけの理由だ。
実は一番最初に見たゲームはマリノスではない。駒場での浦和レッズ戦だった。相手は覚えていない。行った理由はゴール裏に後輩がいて楽しそうだったからだ。
別にどこでもよかったのだ。イタ車に乗るように恰好よければ。
だから、ある意味今でも変わらないG裏で「ゲットゴール、フクダッ!」とか叫んだりしていた。だけど長続きしなかった。理由は「遠く」て「弱い」からだ。
当時クライアントの多くが原宿にあって、仕事の合間に今も駅前にあるKAMOに立ち寄ってみた。Jリーグのユニフォームが売っていた。
その中で「NISSAN」という黄色い文字がプリントされたadidasのユニフォームが抜群に恰好よかった。
(注:当時リーグ戦のユニのサプライヤーは全チームミズノ製という決まりだったのでカップ戦専用)
「Jリーグが流行って」いて「ユニフォームが恰好よかった」から。そんな軽薄な理由から今に至るトリコロールな日々がゆるりと幕を開けたのだ。
1993年6月30日水曜日。サントリーシリーズ(当時10チーム総当たりの前半戦をサントリーシリーズ、後半戦をNICOSシリーズと呼んでいた)第14節対浦和レッズ戦。この日が私の「トリコロール記念日」だ。
買ったばかりのユニを着込んだものの、キックオフ直前にスタジアム入りしたので、なぜか浦和寄りの席になってしまい、来ていたブルゾンを脱げずに終わった。
試合は5‐1でマリノスが勝った。俗にいう馬鹿試合だが、当時の浦和はとても弱かったので当然といえば当然の結果。
だけど当時東神奈川に住んでいたこともあり「近く」て「強い」マリノスをまた見たくなった。
チケットはなかなか取れなかったけれど、だんだん取り方がわかってきて見に行きたいゲームは見れるようになった。そしてゴール裏にだんだん近づいていった。
はっきり覚えてはいないが、おそらくその年の終盤にはゴール裏の当時はホーム側にあった電光掲示板の下あたりでバンデーラを担いで飛んでいた。
だからと言って今のように仲間ができるわけでもなく、いわゆる個サポだった。そんな僕のことを面白がっていつの間にか妻も一緒に通うようになった。
当時のゴール裏は今のように組織的に一体感を作りだすようなことは少なくて、あくまでも自分だけの感覚かもしれないけれど、コールリーダーの動きにただ従っていた部分が多かったような気がする。
今では信じられないかもしれないけれどコールリーダーが複数いた時代もあった。喧嘩沙汰もあったりしてゴール裏が混沌としていた時代だった。
だけどアルゼンチン色が濃かったチームの状態も相まって、ボカジュニオール風のゴール裏の皆が新聞紙を一定の大きさ(サイズが決まっていた)に切ったものを一斉に頭上に振りまく凄まじい量の紙吹雪の中で大旗が数多く降られるその様はそれはそれはとても美しかった。
選手入場後に撒かれた紙吹雪でゴール裏はふかふかで、子供がその上ですやすや寝るということもあったと聞いている。ハーフタイムに一旦集められた紙吹雪は後半のキックオフ時に再び撒かれ、ゲーム後にはゴール裏にいるサポーターにより一枚残らず掃除された。
その後、近辺にゴミがでるという理由からJリーグ規約により禁止されたが、2004年の浦和とのチャンピオンシップ第一戦と2007年の横浜FC戦でクラブから特例として認められて紙吹雪が舞った。しかし、あの三ッ沢の濃密感にはおよんでいないと思う。
J開幕のブームは以外に早く去って1995年あたりには「ブーム」は下火になったが、逆にサポーターの熱気と一体感は上がっていった。
そして、いつなのかはっきりとして記憶がないが、当時のコールリーダーM氏の作による「横浜の歌」が、初めてフリューゲルスとのダービーを前に今でいう民衆の歌と同じ選手入場の前のタイミングで歌われた。
「ウルトラニッポン」(ジョナサン・バーサル著 無名舎刊)にその歌詞を見ることができる。
横浜に生まれてよかった
この街には愛があるから
横浜に育ってよかった
この街には夢があるから
横浜、横浜変わらぬ誇りと
横浜、横浜新しい夢が
横浜に暮らしてよかった
この街には誇りがあるから
この街にはマリノスがあるから
この歌は1998年まで歌われた。振り返ってみると1998年までのこの時期が初期のマリノスとして最も三ッ沢の一体感があり、そして美しい時間だったように思う。
だが、1999年にはこの歌を歌うことはなかった。それは1998年10月に突如として発表されたフリューゲルスとの合併を起因とする。
その1998年には今の日産スタジアム、横浜国際競技場がオープン。そしてマリノスも三ッ沢とヨココク(当時こう言っていた)をホームとして使用し始めた。1999年にコールリーダーが変わり、スタジアムもモダン化し我々の環境が大きく変わった時期である。
そして我々にもワールドカップを控え、ライトな仲間が少しずつ増えてゴール裏からだんだん離れた場所で見るようになった。だが、その一方でアウェイの遠征に出始めたのもこの頃からだ。
皮肉なことだが2001年の降格争いに巻き込まれたことで、遠征にでることが多くなる事へのきっかけとなった。
降格争いは最終節神戸戦までもつれ込んだ。今のノエビアスタジアム、当時の神戸ウィングスタジアムが翌年のワールドカップを控えたオープニングゲームとして開催された。殺気だったマリノスのサポーターが大挙現地まで足を運んだが、今では信じられないことだが現地の小学生が多数このエリアに招待されており
「カズー!」と声援する小学生に「うるさい!黙れ!」とすごむ私を含むサポーターが複数おり、小学生を泣かせたのはいい思い出である。
なお、ゲームはカズにゴールを決められるもののドゥトラのゴールによって降格をぎりぎり免れた。
今も我々はコスト面から基本的には全国各地へ車で遠征するが、そのライフスタイルはこの時期に確立された。
そしてそんな時代、2003年。娘が生まれた。
生まれた直後はさすがに遠征も、妻は来場すらできない時間が続いたが一人で動けるようになるとスタジアムに通うようになり、遠征にも少しずつ出始めた。
週末のたびに日産スタジアムか地方へ遠征か、いずれかの生活が続いた。いけるところまで車で西へ北へ。
そうしているうちに、娘は想定以上の立派なマリノスサポーターに育った。
一部の方はご存じかもしれないが彼女はいくつかの名言を残している。
そんな10代前半にして立派なマリノスサポータになるかと思われた彼女に、今思えば大きな転機になったと思うゲームがある。2016年12月29日。長居競技場で行われた天皇杯準決勝、対鹿島戦である。
彼女はこの日に賭けていた。決勝を吹田で見ることを渇望していた。その前に行われた定期試験にすさまじい集中力で臨み、素晴らしい成果を残した。
でも、仕事の都合で行かれなかった妻を残し、その日私と二人で出掛けた遠征の末、敗けた。彼女は敗北の瞬間に人目もはばからず号泣した。ひとしきり泣いた後、帰りの車の中で彼女は一言も話すことはなかった。彼女はまだ中学二年生だった。
2019年、優勝した年は高校一年生。彼女は学校推薦での大学進学を目指していたために定期試験を優先した。だからアウェイ松本を最後に試験前だという理由であの川崎アウェイとホームFC東京戦を見ることはなかった。盛り上がる両親を尻目に試験にむけて没頭した。そしてその成績は再び素晴らしいものだった。
トップの画像はその今のところ最後の遠征だった2019年松本アウェイの街角での一枚である。このあとめっきりとマリノスのことを彼女の口から進んで語られることはめっきりと減ってしまった。
そして、彼女は見事に学校推薦により大学進学を決めた。だが、スタジアムに足を自ら足を運ぶことはほとんどなくなった。そしてあの冒頭の発言である。
2016年のあの冬に彼女が本当のところ何をどう感じたのか、いまだに聞けてはいない。少し聞くのが怖いのだ。正直なところ。
ちょうど30年前、マリノスをめぐる私のファミリーヒストリーは始まった。一人の時もあったし、今は来ていない仲間とみることもあったし、つまらないことからの別れもあったが、一貫として私たちは30年間マリノスと共に歩んできている。
もしこの私たちのファミリーヒストリーにマリノスという存在がなぜそのような大きなものになったのかという事を改めて考えてみると、それはクサイ言葉かもしれないけど「感動の共有化」だと思う。当然スポーツなのだから負けることもあるけれど、勝った時の喜び、アウェイの地で新たに発見すること、そんなことはきっと他にも色々なアプローチであるのかもしれないけど、それが我々の場合「たまたま」マリノスであった、というだけのことかもしれない。そんな事を経験したことがない家族なんてごまんと居るだろう。
ここ数年はSNSを通じて本名を知らない仲間が夢のような数に増えた。「発煙筒」をキーワードにしてなぜか「マリサポ焚火部」を預からさせてもらっている。仲間の輪が広がっていく。毎日少しずつ。とても嬉しい。とても素晴らしい。いつまでも続けばいいと思う。
でも、その中に僕の娘がいてくれたらもっと嬉しいというのは本音だ。これから大学に進学もすれば他に楽しいこともあるだろう。それはそれで仕方ない。彼女の生き方だから。
でも、いったんマリノスという媒体を通して感じてしまった共有感はそんな簡単には剥がすことはできないと信じている。今は遠ざかっているけれど、またいつの日か彼女が自分の意志でスタジアムに戻ってきてくれたらとても嬉しい。一緒に民衆の歌を歌いたい。昔みたいに一緒にフラッグを振りたい。そして私が死んでもこのL旗を振ってほしい。
ミーハーな気持ちから入ったこの世界だけれど、気が付いたら今では無くてはならないものになっている。こんな世の中だけど、心の底から信じる事ができるものがある幸せを噛みしめている。そんな幸せある?知らないで死んでいく人も多いのに。
「死ぬまでトリコロール」。もうちょっとなので頑張ってみます。
世界でも類を見ないほど平和なJリーグがこれからも、そしてこのまま50年、100年と続いていきますように。この喜びを少しでも多くの人に伝える事ができますように。そして、できる事ならば僕の娘を通じて孫や子孫に続いていきますように。そしてその誰かが私の旗を未来の青空の下で振ってくれますように。
(了)