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禍話リライト「川案山子」【怪談手帖】

諸事情で実家との縁を切って久しいというDさんは、ほんの数年前までひどく捨て鉢な生活をしていた。
そんな時代の彼が、安さだけが取り柄のような、とある川沿いの集合住宅に住んでいた頃のことだ。

深夜に起きた仲間内の厄介事からようやくの思いで抜け出した彼は、隣の区から歩きとおして夜明け前に家へ帰ってきた。
心身ともに擦り切れて、道路横の欄干に肘を掛ける。
帰宅前に一息つきながら、彼はその川を眺めていた。
普段ろくに見やることのない、名前も憶えていないような川だった。
なにかそれなりの謂れがあって、地元では信仰を集めていると聞いたような記憶はある。

(どんな話だったかなあ)

何気なく視線を落としたDさんは、おや?と思った。
どんよりと仄青い、暁闇が支配する川面。
そこに、鷺の影がいくつも立っていた。
点々と、か細い白い灯のように。
鷺自体は珍しくもないが、これほどの数を一度に見るのは何年ぶりだろうか。
すっかり遠くぼやけてしまった、実家近くの川の風景が脳裏を過ぎる。
そのまま口を開けてぼんやりと眺めながら、どれだけ経っただろう。
Dさんはふと違和感を覚えた。
ケェー、というあの特徴的な鳴き声がまったくしない。
そしてどの鷺もいつまでも飛び去らない。
いや、それどころかその場所から動きすらしないのだ。
川の澱んだ暗色に囚われたように、白い影がただじっと佇んでいる。
一度疑念を抱くと、それをきっかけに夜を引きずって鈍化していた感覚が、少しずつ鮮明になってきた。
目もだんだんと薄闇の濃淡に慣れて、どうやらあれは形もおかしいのだとようやく気が付いた。
通常、鷺の首というのは特徴的なS字型をしている。
しかし、目の前のそれらはそうではなかった。
どれも首が真っ直ぐで、頭に異様な丸みがある。

(俯いて両手を斜めに下げた、ひょろ長い人間みたいだな……)

そう思ったという。
そして考えた。
もしかしてこれは、鷺ではないのではないか。
例えば俗にいう幽霊だとか、そういうものなのではないか。
Dさんは半ば無我夢中で、学生時代から唯一お守りのように持ち歩いている小型の双眼鏡を取り出して、川面に立っているそれらを覗いてみた。

それは、少なくとも幽霊ではなかったという。
鷺か鷺ではないかといえば、たぶん鷺じゃないかと。
曰く、嘴らしきものがどこにも見当たらず、遠目に嘴に見えていた奇妙な出っ張りは、傾けた鍔広のような形に広がった、ただの毛羽であった。
その庇の下には、丸く太った頭部があり、そして、トパーズに黒目を入れた
ような無機質な鳥の目が二つ並んで、こちら側の面に付いていた。
畳まれた翼も見当たらず、ただ灰白色の毛が水面に下がった足まで覆っている。
鷺のパーツをいくつかなくした後で、無理矢理かたちを人っぽくまとめ直したような。
一羽だけなら、あるいはそういう奇形の個体だと思い込めたかもしれない。
けれども、川面に点々と佇む影のすべてがそのような形状をしていた。

(これは一体なんなんだ!?)

混乱するDさんへ、その時不意に声がかかった。

「かかしだよ、かかし」

いつの間にか薄闇に紛れて、少し下がった数歩隣に、よれたトレーナーを着た中年女性が立っていた。
同じ軒下か、あるいは近隣住民として見た顔だった気がするが、どこの誰かは曖昧である。
奇妙な連帯を強いる地域感とでもいうべき空気が嫌で、交流をひたすら避けていたからだ。
なにも言えないままのDさんへ、女性は続けざまに述べた。

「田んぼに立てるあれだよ、川でも田んぼでも変わりゃしない。この季節になると立つんだよ」

そして、へへへ、と笑った。
辛うじて、「誰が立てるんだ」というようなことを尋ねたDさんに対して、彼女は

「立てるんじゃなくて立つんだよ、立てるんじゃなくて立つんだよ!」

と繰り返したのち、

「…しいて言うなら川が立てるんだろうよ」

と言った。

”川が立てる”とはいったいどういう意味なのだろうか。
しかし、彼女はそれについてろくに説明もせず、

「いやがってもしょうがないよねぇ、行事なんだから」

そんなよく分からないことを続けざまに口走った。
そして、”行事”というところで弾かれるように欄干の下へと目をやったDさんは、それを見た。
川の手前側に、いつの間にかずらっとくたびれた様な人々の背中が並んでいる。
これも幽霊なのではなく、はっきりと存在している人間。
このあたりの住民たちであるようだった。
Dさんの見ている前で、彼らはざぶざぶと川の中へ入っていく。
一瞬、あの案山子のようなものをどうにかするつもりなのか?と思ったが、違った。
夜明けの気配を滲ませた薄闇の中で、明らかに異常な案山子の群れを気にもせず、彼らは川に手を突っ込んでなにかを漁り始めたのだ。
道具の類は誰も持っていない。
誰も彼もが素手をびっしょり濡らしている。
そうしておいてやがて、次々と川からなにかを撥ね上げ始めた。
ばちゃばちゃ、びちびちびち、と音が響く。
暗いせいで細部はまったく分からないながら、Dさんの脳裏にはその狩猟の様子が異様な雰囲気を伴って映っていた。
人の所作というよりも、例えば環境番組などで時折見られる、川に入って魚を捕る熊のような……。
そんな姿をDさんは無意識に重ねていた。
暗い川の上で、人々は声を上げることもなく、黙々と白い飛沫だけを立てながら、奇妙な踊りを踊るように、恐らくは川の中からなにかを捕っている。
理由の分からない戦慄が、Dさんの全身を貫いていた。
もうまともに動くこともできなかった。
その背後で、あの女性がへっへっと笑いながら、

「かかしだからな、怖いけど、ただそれだけだよ」

そのようなことを口にしたらしかった。

それからどれくらいの時間、麻痺していただろうか。
焦燥とともにひたひたと迫る夜明けの気配を察したDさんは、身体が動くようになるとすぐにその場から逃げ帰った。
日の下でこの光景を見てはいけない。
なにか取り返しのつかないことになる。
そんな気がしたらしい。

その出来事だけがきっかけというわけではないが、それから程なくして彼は
その地域を去った。
もう住所も憶えていないそうだが、あの日薄闇の川面に見た白い案山子たちの影と、川へと群がる人々の背中、隣に立っていた女性のひゅっひゅっという笑い声だけは、記憶の奥底にべったりとこびり付いているという。




この記事は、毎週土曜日夜11時放送の猟奇ユニットFEAR飯による禍々しい話を語るツイキャス「禍話」から書き起こし・編集したものです。

禍話インフィニティ 第四十七夜(2024/6/8)
「川案山子」は40:40ごろからになります。

『怪談手帖』について
禍話語り手であるかあなっき氏の学生時代の後輩の余寒さんが、古今東西の妖怪(のようなもの)に関する体験談を蒐集し書き綴っている、その結晶が『怪談手帖』になります。
過去作品は、BOOTHにて販売されている『余寒の怪談帖』『余寒の怪談帖 二』又は各リライトをご参照ください。

電子版はいつでも購入可能です。
禍々しい怪談、現代の妖怪譚がこれでもかと収録されていますので、ご興味のある方はぜひ。

※「川案山子」については、まだ収録されていません。

参考サイト
禍話 簡易まとめWiki 様

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