黒山羊の家の紡ぎ歌 5/8
第5章 大蛇が来る
その朝、グレゴールは犬たちの異様な吠え声で目を覚ました。
…おかしい。ふだんは吠えることなどめったにないのに。しかもあんなに引きつったような吠え方は。
「何だい…血が凍るようだね」
ジーホは寝床の中でごそごそやって顔をしかめ、毛布を耳の上まで引っぱり上げた。
と、扉がノックされ、ゲオルクが顔を出した。
「空の色を見たかい」
「えっ」
グレゴールが窓の外を見ると、彼方の稜線が山火事のような不穏な色に染まっている。朝焼けだろうか?
それにしてもどんよりと雲に覆われているし、変な感じだ。
ゲオルクはいっしょに窓から外を眺めた。
「こりゃ、今日あたり、あいつが来るな」
「誰が?」
「大蛇だよ」
と、慌てたようすの足音がやってきて、再び扉がノックされた。
「失礼」
こんどは主人のエドモンドだった。
「皆さん、今日は家から外に出ないでください。危険です」
「奴が来るんだね?」
ゲオルクが言うと、エドモンドは黙って頷いた。
「健闘を祈るよ。俺たちにも何かできれば…」
「ありがとう」
言葉少なに主人は立ち去った。各部屋を回って同じ警告を伝えるのが聞こえてきた。
「大蛇って、何?」
「ああ…ちょっと長い話になるよ」
といって、ゲオルクは話し始めた。
「エドモンドは若いころ、世界中を旅して歩いていたんだ。あるとき、知らずに<大蛇の谷>に迷い込んで、寝ていた大蛇のかかとをうっかり踏んづけてしまった」
「そんなことがあったのか。…って、大蛇ってかかとがあったっけ?」
「まあ、いいから聞け。…それで大蛇が怒って、手下の蛇やトカゲどもに命じてエドモンドを追わせたんだ。
エドモンドは死に物狂いで走って逃げて、絶体絶命というときに、岩山の小さな洞窟に逃げ込んだ。そして岩の塊を転がして、追手が入ってこれないように洞窟の入り口を塞いだんだ。
そのとき、マントのポケットに小さなトカゲが入り込んでいるのに気がついて、振り捨てようとした。
ところがトカゲはエドモンドに懇願して言うんだ、『どうぞ私もいっしょに連れていってください。我々はこれまでずっと、大蛇に催眠術を掛けられて、屈従させられてきた。けれど彼の暴虐にはもう耐えられないのです』
『いや、でも勝手に君を連れていったら、また面倒なことになりそうだからなあ。何しろ、さっきちょっとかかとを踏んだだけであの怒りようだもの』
『そこを何とかお願いします、この通り!』
そう言われて、ああいう人だからさ。気の毒に思って、いっしょに連れていくことにしたんだ。それが君も知っているブリュイックさ。
彼はブリュイックをポケットに入れ、洞窟を走って逃げて、何とか大蛇から逃げ切ることができた。
けれど、洞窟の外では大蛇が激怒してどなる声が聞こえてきた。
『お前はひとの土地に無断侵入したうえに、手下まで盗みやがったな。待ってろ、いつか地の果てまでもお前を追って、必ず見つけ出してやるからな!』
それがもう何年も、何年も昔のことで…」
「…そして、今とうとう見つかってしまったわけか」
「そういうことだ」
「なるほどね…しかし、よくよく執念深いな」
と同時に、それを聞いて、ブリュイックが主人のために毎日棚のジュースを補充し、きれいに並べ、献身的に働いているのを思い出した。
その間にも空はますます暗く、どす黒い血のような色になり、谷の方からは不気味な地唸りがごうごうと轟いてきた。
急に風が吹きはじめ、窓をカタカタと鳴らした。
「奴は向こうの谷の方から来るはずだ。ここからでは見えないから、部屋を移動しよう」
そこで彼らは部屋を出て、峡谷を見降ろせる東向きの窓を探しにかかった。
「もう、すぐにも現れるかもしれないぞ。急げ!」
駆け回っているうちに、廊下の突きあたりの窓の下に萌黄色の髪の少女の姿を見つけた。
「クラッシェル!」
呼ばれて、少女は振り向いた。
「ここからなら、主人の部屋の窓のようすも見えるのよ」
窓から身を乗り出してみると、ほかの窓にも<黒山羊の家>の住人たちが鈴なりになって、ことの進展を見守っていた。
犬たちはますます激しく、狂ったように吠えたてている。
クラッシェルはそっとセーターの裾をめくって見せた。
懐にはブリュイックが、丸くなってぶるぶると震えている。
「エドモンドから預けられたの。自分といると危ないかもしれないからって」
そして、その紫色の鱗を優しく指で撫でた。
「大丈夫、大丈夫…エドモンドはきっとうまくやるわ」
今や地唸りはいよいよ高まり、家全体が震動して悲鳴を上げているようだった。
そのとき、「やって来たぞ!」と声が上がり、みんなは一斉に窓から身を乗り出した。
燃えるような色の空を背景に、黒々とした魔物たちの姿が浮かび上がった。
洪水のようにうねりながら押し寄せてくる、無数の蛇やトカゲたちの群れ、そしてその後ろからやってくる大蛇の姿が。
大蛇は谷間の端までやってくると、<黒山羊の家>の屋根と同じくらいの高さまで、その巨大な鎌首をもたげた。窓から見ているグレゴールたちにも、その恐ろしい眼が見えた。
「見つけたぞ!」
大蛇はぞっとするような低い声で唸った。
「出てこい、エドモンド、泥棒め! 俺の手下を返せ!」
すると、窓のところにエドモンドが姿を現した。
窓敷居に足をかけて外へ出ると、屋根の上に登り、すっくと立ちあがった。藤色の髪は吹きなぶられ、マントは戦艦の旗のようにはためいている。
「大蛇よ、聞いてくれ」
主人の声を聞いて、犬たちは吠えるのをやめた。
「かつて、うっかりお前の土地に入ってしまったのは悪かった。しかし、私は泥棒ではない。ブリュイックは自ら望んで私のところへ来たのだ」
「御託はもうたくさんだ。いつまでしらを切るつもりだ。俺の手下を返せ!」
「彼はもうお前の手下ではない。彼は亡命者だ。お前に引き渡すことはしない」
「俺の手下を返せ!」
「断る。帰ってくれ」
すると大蛇は首を揺らし、シュー、シューと音を立てて舌を出した。
二つに分かれた長い舌が、今にもエドモンドを絡め取りそうに、彼のまわりで鞭のように空を切った。
「ふん、盗人猛々しいとはお前のことだな。お前たちは相変わらずだ、昔から変わらないな…
よく分かった。ではどうなるか見ておれよ…呪われた家よ、炎に焼かれて滅びるがいい!」
そう言うと大蛇はゆっくりとくびすを返し、去っていった。手下どもの群れもそれに続いた。
<黒山羊の家>の住人たちは息をつめてそのようすを見守っていた。彼らの姿がすっかり彼方へ消え去るにつれ、いつしか不気味な地唸りも収まり、空の不穏な光もほどけて、あたりはしんと静かになった。
「…ブラボー、エドモンド!」
声が上がり、窓から窓へ、歓声と拍手喝采が響いた。
クラッシェルはブリュイックを抱きかかえ、涙を流していた。
「よかった…」
「見事だったな、あの人」
グレゴールは呟いた。
「ふう、やれやれ、助かった…」とジーホ。「しかし何だい、あの捨て台詞?」
「ああ」ゲオルクの表情には安堵と当惑が入り混じっていた。
「あれですめばいいが…」
つづく→
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