黒山羊の家の紡ぎ歌 3/8
第3章 世間ぎらいの巨人
一日二日して、だいぶ様子も分かってきた。
タイルストーブのある大部屋は<ストーブの間(ま)>と呼ばれ、住人たちの溜まり場になっているようだった。台所ともつながっていて、いつもスープ番がスープの大鍋をかき混ぜている。
<金の雄鶏亭>での話を聞いて、ゲオルクは大笑いした。彼らもめったに行く場所ではないらしい。
他方、この家の主人であるエドモンドは、ほとんどこの部屋に姿を見せることはなかった。
てっぺんにある彼の部屋では、ブリュイックが、月に一度箱詰めで届くジュース間の詰め合わせを棚に几帳面に並べ、朝夕ごとに主人の好みに合わせて何種類かをトレイに用意するらしい。
主人の暮らしぶりは、謎に包まれていた。家のそこかしこで何やかややっているらしいが、何をしているのかははっきりしない。家にいないことも多いようだ。
だんだんとグレゴールは、エドモンドが何か彼に隠しているのではないかと疑うようになった。
何とかその動向を探ろうとしたが、どうしてなかなか容易ではない。
たとえばときどき犬ぞりに乗って出掛けるとき。一体どこへ行っているのだろう?
何か手がかりになるかと、そりの跡をつけてみたことがある。
その日、そりは斜面を一気に下り、細い山道に沿ってきれいなカーブを残していた。彼がまだ行ったことのない道だ。
たどっていくと、道に沿ってだんだんと岩壁が険しく盛り上がってきた。
そしてあるところで、一度そりを停めた形跡があるのを彼は見てとった。気をつけて見てみると、岩壁に奇妙な割れ目というか、隙間が走っている。近づいて覗いてみると、割れ目はずっと奥の方まで続いていて、どうやら瘦せた人間がひとり、横向きで何とか通れるくらいの幅はありそうだ。
グレゴールは試しに体を入れてみた。いけそうだ。
割れ目はもう少しで彼を挟みそうになったりしながらも長々と伸びていた。ところどころ、岩がくさびのように嵌っていて、苦労して乗り越えなくてはならなかったり、あるいは四つん這いになって下をくぐり抜けたり。
そのうち右手の岩がせり出してきて、ついには完全に頭上を覆った。地下道に入ったのだ。
まもなく、その道は<黒山羊の家>の廊下のように、複雑に入り組んでいるらしいことが分かってきた。幾度となく、枝分かれしたところに差し掛かった。グレゴールはそのたびに、なるべくまっすぐな道を取って進んだ。
「まっすぐ、まっすぐ」と自分に言い聞かせたが、しだい不安になってきた。森の中に置き去りにされたヘンゼルとグレーテルのように、何か目印を残したい気持ちだった。
幾度目かの分かれ道で、左手のほうから薄ぼんやりとした光が射しているのに、彼は気がついた。
道の突き当たりには腐りかけた木の扉が嵌っていて、その隙間から明るみが漏れているのだった。
勢いよく扉を押し開けて、グレゴールははっと息をのんだ。ふいに足元がなくなったのだ。
何たることか、そこには深く切れ込んだ、底知れぬ谷間が広がっていたのだった。
グレゴールは両脇の岩を探りながら、そろそろと後じさりした。それからへたりこんでふーっと息をついた。
それから今度は腹ばいになって、もういちどゆっくりとにじり寄っていった。岩の縁にしっかりとつかまって顔を出し、改めてその絶景を眺めた。
はるか上の方に薄灰色の空が見えていた。
下はといえば暗い陰に飲みこまれ、何がどうなっているかも分からない。
向こう側の岩壁は鋭く切り立って、雪も積もらない。
そして、谷間の続く彼方へ目をやると、雪景色の中にぽつりと一点、首飾りのように曲線を描く赤レンガ色のもの。
それは鉄橋だった! ここへやってきた日、クグノーの村に入る前に汽車で渡った、あの鉄橋だったのだ。
こんなところから見ることになるとは…。
グレゴールは細心の注意を払って宙に突き出した扉を引き戻すと、このとんでもない道を取って返した。
進むにつれ、道はいよいよ険しくなった。
ぐっと登りになったかと思うと急に落ち込み、幅も高さもてんでいいかげん。
いきなり曲がることもたびたびで、もはや方角も分からない。
そうやってかなり行ったころ、また突然に、出口の光が見えたのだ。
こんどはグレゴールも慎重だった。
しかし、こんどのはともかく、いきなり谷間へ出るようなことはなかった。それはもっと薄暗い、青っぽい光だった。
グレゴールは今や、自分が岩をくりぬいた大聖堂のようなところの入り口に立っているのを知った。
広々とした、でも岩そのままの床に、やはり岩から彫り出された巨大な柱が何本か立っている。
しかし、その向こうに見える、衣服のひだのような、流れている途中で固まった氷河のような───あれは何だろう?
そして、その下から見えているあの───。
グレゴールはぎょっとした。まるで人間の足のように見えたのだ。
恐る恐る見上げてみると、見えたではないか───はるか上、彼が天井だと思っていたところのさらに上、頬杖をついてこちらを見降ろしている、彫りこんだ岩のような巨人の顔が。
ドームのような天井はさらにその上に広がって、すっかり半透明の石英でできているように見えた。そこから、このわずかな光が入ってきているのだった。
グレゴールは腰を抜かして、動けなかった。
そして、姿を隠すまもなく、この巨人に見つかってしまったのだ。
「おや、エドモンド」
巨人は、大きな石臼をがらがら回すような声を上げた。
「また来てくれたのかい。こいつはうれしいね───おや?」
巨人の岩のような顔が、ゆっくりと近づいてきた。
目ばかりはきれいなうす青色をしていて、その目が今、不思議そうに細められてグレゴールをじっと見つめていた。
「エドモンド───じゃない? こいつは失礼。しかし、どなたかな?」
「ええと」
グレゴールは震える声で釈明した。
「すみません、そのう…道を間違えました」
「そりゃあ、お気の毒に。しかし、こちらとしては、間違いでもうれしいわい。わしは、ハーボッフェンといってな、トランプを趣味としておる」
「私はグレゴールです」
逃げ出すより先に巨大な手が伸びてきて、グレゴールはがっちりと包み込まれ、でもわりと注意深く、巨大な石卓の上へ運ばれた。
「お急ぎでなかったら、ひと試合おつきあいいただけませんかの」
見ると、テーブルいっぱいに、家の扉ほどの石板がごちゃごちゃと散らばっている。磨り減ったり欠けたりしているものもあったが、どれも同じ、アラベスクのような模様が彫りこまれている。これが巨人のトランプなのだった。
グレゴールは今や、大変なおつきあいをするはめになったことに気がついた。
「<ユダヤの星>はご存じかな? あれがいちばん面白いんだが」
「すみません、トランプはあまり詳しくなくて…」
「じゃあ、ババ抜きは?」
「それなら知ってますけど…」
「よし、では決まった」
巨人はすさまじい音を立てて石のトランプをかき集めると、念入りに切り始めた。
「失礼ですが、私にはこんな大きなトランプはちょっと…」
「もちろん、もちろん」
熱心に配りながら、巨人は答えた。
「心配ご無用… エドモンドとやるときの方法論が確立ずみでな」
「エドモンド… 彼とお知り合いなんですね」
「知り合い? エドモンドとこのわしが?」
巨人は、何か二人の間でしか通じない冗談を聞いたように低く笑い声をあげた。
それから実に数時間というもの、彼らはえんえんとトランプのゲームに興じたのだった。
石卓の一隅には、巨人がエドモンドとババ抜きをするときのために彫った刻み目があって、そこに手持ちのカードを刺して立たせるようになっていた。
ババ抜きに七並べ、神経衰弱… グレゴールが知っているものなら何でもやったし、知らないものでも容赦なくつきあわされた。
カードをめくったり移動したりは巨人が彼の分もやってくれるので、グレゴールはただ指し示すだけでよい。が、それにしてもほとんど休みなしにひっきりなしに駆け回らなくてはならなかった。
天井からわずかに漏れてくる光も陰り、どうしてももうお暇しなくてはと、懇願を重ねてやっとグレゴールは解放された。
巨人はお客が帰ってしまうのをひどく残念がった。
「今日は本当に楽しかったですじゃ。おつきあいいただいてありがとう。ぜひまたおいでなされ」
「そ、そうですね… また、いつか」
「エドモンドによろしくの」
「は、はい…」
へとへとに疲れた体を引きずって、グレゴールはもと来た地下道を引き返した。暗くなる前に、何としても外へ出なければ。
ところが、焦れば焦るほど道はくねくねと入り組んで、果てしのない迷宮のよう。グレゴールの頭は混乱し、しだいにぼうっとしてきた。
どれくらい歩いただろう、前方にやっと微かな明るみが現れた。
───出口だ! グレゴールは最後の力を振り絞り、夢中で突き進んだ。
ところが、出たところが、これまで一度も見たこともない山のふもとだったとは。
グレゴールは呆然として立ち尽くした。
一軒の家も見えない。雪の中に、ただ険しい岩山が続くばかり。
空は暗くなり、かたい雪まじりの風が吹き出した。
雪はまもなく本格的になって、グレゴールの顔やコートに遠慮なく吹きつけてきた。
彼はぶるっと身震いした。そして、やけくそになって「おーい! おーい!」と叫びながら駆け出した。
雪で視界が遮られ、何度もかちかちに凍った雪に足を滑らせて転んだ。
いちど、斜面を転がり落ちて身を起こすと、ほんの少し先から切れ落ちて崖になっていた。
彼はぞっとして夢中で這い上がり、再び助けを叫び求めながら走り出した。
そのとき、遠くでかすかに声が聞こえたような気がした。
彼ははっとして立ち止まった。空耳だろうか?
「おーおおおおい!」
ありったけの声でどなってみた。
「おーおおおおい!」
たしかに返事が返ってきた。
「おーおおおおい! おーおおおおい!」
グレゴールは必死にどなりつづけた。
やがて吹きつける雪の向こうに、何か黒っぽいものが見えた…<黒山羊の家>のそりだった!
「いやあ、やっと見つかりましたね」
エドモンドの例のホウレンソウ色のマントには、雪がごっそりと貼りついていた。
犬たちはグレゴールを見てしっぽを振った。
主人は彼に手を貸して、そりの後ろの座席に乗りこむのを手伝った。
グレゴールはといえば、驚きと安堵で口もきけなかった。
ただ、そりの縁をしっかりと掴み、その感触に、すんでのところで助かった実感を噛みしめていた。
主人は犬に鞭をくれ、そりは吹雪を突いて勢いよく滑り出した。
しばらく揺られながら、主人の丸まった背中を眺め、グレゴールはやっとためらいがちに口を開いた。
「あの、…どうして分かったんでしょうか、私がここだって?」
「ええ?」
主人は少し考えるように間を置いて、それからぼそぼそと答えた。
「そうですね、なんとなく分かるんですよ───誰かがあの辺で困ったことになっているらしい、とね。ええ、何となく感じるんです───この土地は長いですから」
その日の後刻、グレゴールはストーブの間で毛布にくるまって、オーヴンで焼き上がったばかりのプディングをふうふう言いながら匙ですくっていた。
「考えてもみてくれよ」
ようやく手足の感覚が戻ってくるのを感じながら、ゲオルク相手にこぼした。
「いったい何時間、トランプの相手をさせられたと思う?」
ゲオルクはにやりとした。
「ハーボッフェンのじいさんに捕まったな? 喜んでたろ、じいさん」
「いやはや」
グレゴールは溜め息をついた。
「あんなのに出くわすなんて…!」
「驚いたかい。話によると、ここ何百年かはああして籠ったきりらしいよ」
「へぇ…?」
「世間ぎらいなのさ! トランプが人生だからな、あの人にとっちゃ。朝から晩まで、トランプの一人遊びをやっているよ」
グレゴールはしばし考え込んで、小さなぶつぶつがいっぱいできたプディングの表面を、匙で突き崩していた。
「なんか、エドモンドと友だちみたいなことを言っていたけど」
ゲオルクはそれを聞いて笑い出した。
「友だちも何も! うちの主人がどういう人間か知ってるだろ」
「えぇ?」
「断れない人でさ! 月に2回は相手しに行ってやってるよ」
「月に2回…!」
グレゴールは驚きあきれた。
「まあ、何だね…滅びゆく種族っていうところだね。哀れなじいさんよ」
グレゴールは、巨人のあの穏やかに澄んだ目を思い出した。
おもてでは、吹雪がますます荒れ狂っていた。誰か迷うものがあれば、容赦なくその爪にとらえて底なしの谷に突き落そうとやっきになって。
つづく→
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