黒山羊の家の紡ぎ歌 4/8
第4章 炎の乙女
ハーボッフェンの一件以来、グレゴールはすっかり毒気を抜かれてしまった。
もう主人を疑うことはなくなったが、さりとて大叔父の行方の手掛かりになるようなものはいっかな見つからない。途方に暮れたまま、日々が過ぎていた。
その朝、グレゴールは窓から外を眺めていて、何か小さなシルエットが向こうからやってくるのに目をとめた。ひょろっと細長い動物のシルエットだ。
そいつは肩に担いだ枝の先に、小さい荷物の包みを括りつけていた。岩陰からひょっこり現れ、雪の中をすばやく進んでやってくると、玄関先で足を止め、少しの間思案している様子だった。が、やがてほいっと飛びこんで、グレゴールの視界から姿を消した。
そのときはとくに何とも思わず、「色んなのが来るんだな…」と思っただけだった。
だが、その日の午後、部屋に戻ったグレゴールは、そいつが暖炉の前のゆり椅子にふんぞり返り、すっかりくつろいだようすで新聞を広げているのを見て、びっくりした。
そいつは彼の姿を見ると、新聞を置き、椅子から飛び降りてひょいっとやってきて、小さな前足を差し出した。
「いやいやどうも、お邪魔していますよ。今日から相部屋ということで、よろしく」
「はあ…」
面食らいながら、グレゴールは身をかがめ、差し出された前足を指先でつまんだ。
「君は…けさ来た人?」
「いかにも」
そいつは頷いた。
「束の間の休暇を、楽しもうということでね」
「君は、そのう…イタチ?」
「剥製のイタチだよ」
「は?」
「ほんとだってば。この目玉を、こつんと弾いてごらんなさいな」
言われてグレゴールはそいつの目を覗きこんだ。ガラス玉みたいな黄色い目だ。
そっと、用心深く、彼は人差し指の先でその目に触れてみた。それから控えめに弾いてみた。
「ほんとだ!」 彼は驚きの声を上げた。
「もちろん、ほんとだとも」
「一体何だってこんなことに?」
「世にも悲しい物語さ」…
「ぼくは、もともとこのへんに住んでいたんだよ」
夕食のあいだに、ジーホというその新しい客は、グレゴールに話して聞かせた。
山々を気ままに駆け回って過ごしていたが、ある日、年とった猟師に撃たれたこと。剥製にされ、ガラスケースに入れられて、そのうちの玄関に飾られていたこと。そのうち猟師が死んで、彼もガラスケースごと、ほかの多少とも値打ちのある諸々とともに、町の古道具屋に売られたこと。
「古道具屋のおやじはいい人でね。毎日、話しかけてくれて、友だちになった。先週のこと、ガラスケースに閉じこめられっぱなしというのも辛いだろうから、ちょっと息抜きしてこいって、休暇をくれてね。ありがたかったよ。何しろ15年というものずっと同じ姿勢で立っていたものだから、すっかり腰をやられちまって」
言いながら、彼は腰のあたりを前足でさすった。
「せっかくだから、故郷の山のようすを見てきてやれと思って、戻ってきたのさ。やっぱりいいなぁ、山は。この雄大な眺め。広々として、心がスカッと洗われるようだね。あんたも休暇で遊びに来ているのかい?」
「いや…」
グレゴールは口ごもった。
仕方なく例の電報を取り出すと、この奇妙な状況を、ありのままに話して聞かせた。
「ふむふむ」
ジーホはひげをぴくぴくさせながら聞いて、それから意見を述べた。
「でも、どうしてあんたは、その叔父さんが危篤だと思ってるんだい? そんなことひと言も書いてないじゃないの」
「いや、そうに違いないさ。叔父じゃなくて、大叔父だぜ。もういい年のはずだ。でなかったら、こんな電報をよこすはずがないだろう」
「そりゃ、分からないよ」
ジーホは言った。
「元気でぴんぴんしているかもしれん。そもそも、この家にいるとも書いてないじゃないか」
「えっ…」
グレゴールは言葉に詰まった。そんなことは考えてもみなかった。
「ただその人はあんたに、ぜひともここへ来いと言ったんだろ。何か、見せたいものがあったんじゃないの?」
グレゴールは考えに沈んだ。それがほんとうなら、すべてが違ってくる。しかし、一体何のために…?
とにかくもう少し粘って、何か手がかりを見つけ出せるか見てみよう。
そう結論づけてベッドに潜りこんだころ、月は窓の外で高く、こうこうと輝いていた。
ジーホは暖炉のそばの藤籠のなかに毛布を敷きつめた気もちのよい寝床をしつらえて、その中で丸くなっていた。寝る前に枕元においた小型ラジオでニュースや音楽を聞くのが彼の習慣だった。
「古道具屋のおやじがいつも聞いてるんで、慣れちまってね。このラジオもおやじが持ってきなって、貸してくれたんだ」
こうして図らずも部屋を共にすることになったジーホは、なかなか気の利くやつだった。
どこからかやかんとふちの欠けたティーセットを調達してきて、おかげで部屋でお茶を飲めるようになり、ぐっと居心地がよくなった。
あとから来たくせにいつの間にか色んな情報を仕入れて、グレゴールに教えてくれたりもした。
ある日の午後のことだった。
ジーホはどこかに出掛けていた。
部屋にひとりでいると、窓の外で雪が降り出した。牡丹雪のような、粒の大きな雪片が次から次へ、ひらひらと落ちてくる。
グレゴールは窓辺へ寄って、空を見上げた。
ふいに、「…手紙を書かなきゃ」と思った。
あの町を出てから、もう何日にもなる。心配されているのは分かっていた。現況を知らせなくては。
グレゴールは便箋を取り出し、
愛するオルドリア、
と書き出した。
それから、ここ数日に見聞きした色々な出来事を思った。
<黒山羊の家>と奇妙な主人のこと、ハーボッフェンの洞窟でのこと、ジーホのこと…
だが、どれもあまりに突拍子がなさすぎて、どんなふうに書いたものか。
1,2時間というもの苦心しながら机に向かったが、どうにもうまくまとまらなかった。
グレゴールは頭を抱え、しまいには便箋をぐちゃぐちゃに丸めて、暖炉の火の中に放り込んだ。
その晩、ジーホは少し遅くに帰ってきた。
「劇場で、ドン・キホーテを見てきたよ。なかなかよかったよ」
と言った。
「ロシナンテがよかったな。ブリキの缶と芝刈り機でできていて、しっぽはホウキで」
「え、劇場? どこにあるんだい、そんなの」
「知らなかった? この中にあるんだぜ」
ジーホの話では、グレゴールが最初の晩に食事した<金の雄鶏亭>のわりと近くにあるらしい。
「水曜の晩にレマのショウがあるから、行ってみたら」
「レマって誰?」
「まぁ、行ってみなよ。後悔はしないよ」
<劇場>と刻み込まれたその小さな扉は、半分カーテンに隠されていた。
うんと体を縮こめてくぐってみると、中もこぢんまりとして、何となく、歪んだ卵の中にいるようだ。長い間にあちこちが曲がったり磨り減ったりして丸みを帯びている。
奥にある舞台に向かってすり鉢状に座席が並び、まばらに人が入って、薄暗い中でざわざわしている。
舞台には一台の古ぼけたピアノがあるきりだった───いや、それだけではなかった。よく目を凝らすと、後ろの方に大きな水槽がいくつかあって、中で時々何かが───ぼんやりと、赤や青に煌めいていた。
彼が端の方に腰かけて待っていると、なおも幾人かがその小さい扉から、身を捻じ込むようにして入ってきた。
だいぶたって、ようやく舞台の袖あたりで動き回る気配がしだした。そして、明るい萌黄色の髪をした少女が大きなガラスのランプを運んできて、舞台の両端に据えた。
彼女はそれからちょっと水槽をのぞいて軽くこつこつと叩いてやると、客席の方へやってきて、入口にいちばん近い端、グレゴールのとなりに腰かけた。
「もうすぐ始まるわ」
と、少女は小声で彼に言った。
「これは…どういうショウなの?」
「始まれば分かるわ」
少女はそう言って、楽しげに足をぶらぶらさせた。
そのようすは夏の光に輝く朝露のようで、この家の中ではどうにも場違いに感じられた。
「ええと…君がその…レマ?」
「いいえ、私はクラッシェル。レマは私の姉さんよ。伝説の女王さま」
「伝説の女王さま?」
そのとき、半分垂れていた重たいカーテンがするすると巻き上がった。そして、火のように赤いドレスを着たひとりの女が進み出た。客席から拍手が起こった。
グレゴールは息を吞んだ。あの日、はじめてこの家に来たとき、廊下ですれ違ったあの女だった。あれから彼は自分の感覚がどうも信じられず、あれは自分の見た幻だと思っていたのだ。
彼女はあの日と同じように、輝く真っ赤な髪を結い上げて、大ぶりの赤縞めのうの髪飾りと額飾りを着けていた。
人間離れした美しさ。大理石の彫刻のような無表情。
顔だちはたしかに妹と似ているが、二人はまるで別の世界に属しているみたいだ。
女は客席に向かってしずかに膝をかがめると、ピアノに向かった。ざわめきがやんだ。
それから、おんぼろピアノに命が吹き込まれて、聞いたこともない調べが流れ出した。はじめは単調だったが、しだいに訴えかけるように激しさを増し、ついには苦しいほどになった。ほとばしる力がピアノの音色を通して、聞く者の胸をまっすぐに刺し貫く。グレゴールは思わず吐息をついた。
音楽がクライマックスに達したとき、彼女はつと鍵盤から離れ、まわりながら激しく踊り始めた。ピアノはひとりでに奏で続けている。
そして、それを合図に水槽の中の生き物たちが、しぶきをはね散らして一斉に飛び出し、彼女のまわりを渦巻いてまわり始めたのだ。
宝石のように鮮やかな色の、奇妙な形の魚たち。
光と音と炎の輪舞。…
ショウが終わり、ランプが消え、人々が席を立っても、グレゴールはぼうっとして動けないままだった。
その間にクラッシェルはランプを片づけ、魚たちに声を掛けてやり、舞台の上をモップ掛けしたりして、忙しく働いていた。
それからひと段落してグレゴールの隣に戻ってくると、腰を下ろして「ふう」と息をついた。
「…大変だね」
「いえ、慣れてるから」
と、彼女は答えた。
「ランプと水槽は私の担当なの。魚に餌をやるのは楽しいけれど、水槽の掃除をしたり、水を入れ替えたりするのはちょっと大変ね」
彼女はおもに舞台裏の仕事をしているが、ときにはレマといっしょにショウに出ることもあるらしい。
「すばらしいショウだった」
「そうでしょ?」
クラッシェルは笑顔を見せた。
「君の姉さんの弾いていた、あの曲は何?」
「この地方に古くから伝わる紡ぎ歌よ。昔、女の人たちが、糸を紡ぎながら歌っていた歌なの」
クラッシェルは綺麗な声で歌って聞かせた。
ときが来た 炎の乙女
身を起こせ 光を放て
愛する者のもとへ発て
「それは…婚礼の歌?」
「そうかもね」
と、クラッシェルは答えた。
「とても古い歌なのよ。この土地には、とても古いものがたくさん残っているの。この歌もそうだし、この家もそう。中世の建物のように見えるかもしれないけど、実は土台の部分はもっと古いのよ…」
何度か劇場に通ううち、クラッシェルやほかの役者たちともしだいに顔なじみになった。
そして、<黒山羊の家>の複雑な構造についてもさらに知るようになった。
この家の地下の部分には、ずっと昔に岩盤を刻んでつくられた、神殿のような大きな広間があるという。レマはふだんはそこで過ごしていた。背の高い、石の玉座に掛けて、ひとりで過ごしているのだった。
「ずっとひとりで、何してるの」
と、クラッシェルに聞いてみたことがある。
「そうね、昔のことを考えたり、竪琴を弾いたり…しながら、待っているのだと思う」
「待つって、何を?」
「…」
クラッシェルはうつむいて、答えなかった。
「…あの歌ね」
しばらくしてから言った。
「とても古い歌だけど、これから起こる歌でもあるの。…」
つづく→
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