黒山羊の家の紡ぎ歌 6/8
第6章 一角獣狩り
大蛇が行ってしまってから、<黒山羊の家>には平和が戻ってきた。
グレゴールとジーホは夕食を終えるとたいてい部屋でのんびりした。暖炉の前に椅子を寄せてやかんを火にかけ、お茶がわくのを待って、休みなく形を変えて踊る火を眺めたり、ジーホの小型ラジオから流れる音楽に耳を傾けたりした。
ある晩のこと、グレゴールは狩りに行かないかと誘われた。
「夜の狩りって、すばらしいもんだぜ。知らないだろうが、ここらの山には珍しい生き物がいっぱいいるんだ」
ゲオルクは銃をぴかぴかに磨きながら言った。
「狩りか…」
「感謝しなよ、こんな機会、なかなかないんだから」
そして、グレゴールがまだ行くとも行かぬとも決めかねているうちに話はどんどん進み、玄関先で9時に集合という運びになっていた。
その晩、仕方なくコートのボタンを掛けていると、はやばやとベッドに潜りこんでいたジーホが寝ぼけた声で尋ねてきた。
「何だい、こんな時間にどっか行くの?」
「正直、あまり気が進まないんだけど」とグレゴールは言った。
「狩りに誘われたんだ。ちょっと行ってくるよ」
それを聞くなり、ジーホはびくっと体をこわばらせた。
「狩りに行くのかい」
小声で言って、彼はくるりと寝返りを打った。
グレゴールははっとして、言葉に詰まった。
そうだった。忘れていた…。
「───安心しろよ。ぼくはどうせ銃を使えないし、何も撃ちはしないさ」
己の鈍さ加減をののしり、後悔に苦しみながら、彼はのろのろと階下へ降りて行った。
玄関の扉を開けると、雪の上にレマとクラッシェルが並んで立っていた。
「おや、君たちも行くの」
ちょっと驚いて声を掛けると、クラッシェルが笑って答えた。
「そう、私たちも行くのよ。もうじきゲオルクが<山かげ>や<月かがみ>を連れてくるわ」
そりも出ており、銃や毛布や魔法瓶を積み込んで、出発するばかりになっていた。いつぞやエドモンドが助けに来てくれたとき以来のそりだ。まるでにやにやしながらこう言っているようだった───おや、また君かい? 懲りずによく行くね。
一面の雪は月の光に青く染まり、ときどき、はるか遠くで何かが悲しげに遠吠えした。
まもなくゲオルクが犬たちを連れて現れ、みんなはそりに乗り込んで、めいめい荷物の間に収まった。
「いいかい、みんな? よし、それじゃ出発だ!」
鋭い口笛を合図に、そりは勢いよく走り出した。雪を蹴散らしながら、飛ぶように木々の間を抜けていった。
かなり行ってから、そりは少しスピードを緩めたので、あたりを見わたす余裕が出てきた。
ゲオルクが言っていたのは本当らしい。あたりはひっそりとしていたが、よく見るとあちこちに生命のしるしが認められた。
木々の間を、黒っぽい獣たちの影がすばやく通っていく。
耳と口の尖ったモモンガのような赤茶色の動物が、枝の上で目を光らせていたりもする。
もっと行くと、ふしぎな光景に出くわした。
色んな色をした、毛の長いねずみみたいな生き物の群れが、海の中のクラゲのように浮遊している。先に房のついた長いしっぽを持っていて、それで釣り合いを取っているようだ。
「あれはミグワムというのよ。あれの毛皮でつくったマフはとても暖かいの」
クラッシェルがちょうどそう言ったとき、ブルーと淡い桃色の二匹のミグワムが寄り添って、そりのすぐ前をふわりと横切った。
ゲオルクは銃を取ると、別の黄色いのに狙いを定めた。
───バン!
途端にミグワムたちは揃って飛び上がり、ゴムまりのように梢を飛び越えて、一匹残らず姿を消してしまった。
ゲオルクはそりを停めると、それを拾い上げて言った。
「さあ、今夜の最初の獲物だ」
グレゴールは少しやりきれない気持ちでその小さい塊に目をやった。
ほんの少し前までのんきに空中を漂っていたそいつは、今はただのぐにゃりとした物体でしかなかった。
すぐに、そりは再び走り出した。
林を抜けると、切り立った崖の道に入った。
急な坂道だ、しかも一歩間違えば谷底へまっ逆さま───
けれど、犬たちはよく心得ていて、決して道を外すことはなかった。
他の者たちも平気な顔でいるので、グレゴールもじきに慣れて、このスリルを楽しむことができるようになった。
ふいに道が折れると、眼下にすばらしい景色が広がった───
雪に覆われたぎざぎざの山並が、見渡す限りどこまでも続いている。
はるか彼方に<黒山羊の家>の灯りが、そしてさらに遠くには村の家々の灯りも見えた。
頭上には震えるほどに張りつめた夜空が広がり、月が、手を伸ばせば届きそうに強く、冷たく照り輝いている。
グレゴールはふーっと息をついた。
「壮観だなぁ」と、思わず口を突いて出た。
「こんなすごい土地に生まれ暮らしているなんて、君たちは、何てラッキーなんだ」
するとクラッシェルが、少し驚いたように目を見開いた。
「そう思う?」
そして、考えながら言った───
「そうかもね。でも、けっこう大変なこともあるのよ」
グレゴールはすぐに後悔した。
「そうだよね、ごめん」
「確かに美しいところよね」
彼女は大きな緑色の瞳でまわりを見渡し、再び考え込むように言った。
崖の道はいよいよ険しく、急になった。
もうずいぶん標高も高いのだろう、グレゴールは息が苦しくなってきた。
と、突然、崖の縁から乳色の濃い霧が、まるで生き物のように這い上がってきてそりを包んだ。前は見えないし、耳も変な具合になって聞こえない。
そんな状態が少し続いたあと、ふいにさっきから耳元で何かが悲し気に呟いているのに気がついて、グレゴールはぞくっとした。
と思う間に、霧はするりとほどけて、斜面沿いに伝って消えた。
「ありゃ、何だい」
「何だか知らんがね。俺たちの間じゃ、<吟遊詩人>と呼んでるよ。何か言ってる感じは分かるんだが、何を言ってるのかは分からないんだ」
ゲオルクが答えた。
「太古の生き物だな。恐らく、レマにはあいつの言うことが分かるんだろう。───でなきゃ、誰にも分からんね」
グレゴールはさっきから、伏し目がちにしてひと言も喋らないレマが気になっていた。それでだいぶ気後れしたが、思い切って話しかけてみた。
「とても寒いと思うのですがね。寒くないですか」
レマはちらりとこちらを見たが、何も言わない。
「…あなたのショウはすばらしいですね」
聞こえている筈なのに、じっと見つめるばかりでやはり何も言わない。
グレゴールはその燃えるような瞳に、だんだん耐えられなくなってきた。
すると、クラッシェルがくすりと笑って言った。
「姉さんに話しかけたってむだよ」
「どうして?」
「姉さんは喋らないわ」
「…」
グレゴールは黙るしかなかった。そして、レマの刺し貫くような視線から解放されてほっとした。
「どう、どう!───ちょいとひと息つこうか」
ゲオルクが行って、そりを停めた。
「クラッシェル、そこの魔法瓶を取ってくれ」
熱いお茶が回され、ビスケットが配られた。
胃が温まると、冷え切っていた感覚がよみがえってきて、彼らは生き返った気もちだった。
ゲオルクは犬たちにもビスケットを投げてやった。
「よしよし、ご苦労だったな…さあ、もう少しで峠だぞ、がんばれ、山かげ、月かがみ!…」
ビスケットの箱が空になると、彼は再び鞭をあてた。
ついにそりは、両側に鋭く切り立った峠を越えた。そして、おそらくは氷河の名残なのだろう、斜めに広がった大雪原を一気に下って行った。
月に照らされた雪の上では、霧のような衣をまとった人々が輪になって奇妙なステップを踏んでいる。
それに見入っていると、頭上で鋭い羽音がして、一対の黒い翼が彼らの上を飛びかすめた。続いて一対、さらに一対、…そしてこんどは群れになった翼たちが。…胴も頭もない、ただ翼だけの生き物なのだ。
───バン、バババン!
ゲオルクの銃が火を吹いて、何対かの翼を撃ち落とした。
こわごわ頭を上げると、群れはもう遠く飛び去って、彼方の空を舞っていた。
「ここの山には、色んな生き物が住んでいる」
と、クラッシェルが言った。
「たぶん、他では生きられないのね」
翼たちを回収してそりに積み終えると、ゲオルクが言った。
「さあ、いよいよ一角獣の群れにお目にかかれるぞ」
「何の群れだって?」
「今夜のお目当てさ。今の季節にゃ、ここらに来てる筈なんだ」
そのとき、グレゴールもたしかに見た───紛れもなく、かの名高い獣たちが、岩の上にしずかに憩い集っているのを。
彼らはみな額の真ん中にまっすぐな金色の角を持ち、体は純白や繻子のような臙脂色や、深い藍などの美しい毛並みをしていた。
ゲオルクは短く口笛を吹いた。
「よし、あいつに決めた」
呟いて、ぴしりと鞭をくれる。と、そりは猛スピードで突っ込んでいき、平和を乱された一角獣たちは散りぢりになって逃げ出した。
彼が目をつけたのは、長いたてがみをした暗緑色のりっぱな牡馬だった。獣は疾風のように駆け下り、犬たちも全速力でその跡を追った。
グレゴールはただ手に汗握る思いで一角獣の後ろ姿を見つめていた───が、ふいに、何の目的でここに居合わせているのかを思い出してどきりとした。
一角獣は険しい岩山の頂上に向かって飛ぶように駆けていく。
「くそっ、あいつ、そりが岩を超えられないことを知ってやがるんだ」
ゲオルクが呟いた。
「そら、月かがみ! あいつに追いつくんだ、がんばれ!」
一角獣とそりとの間はじりじりと縮まっていった。
「よし、いいぞ…」
ゲオルクは銃を取り、構えた。
瞬間、一角獣はまさに天を突かんとばかり、岩山を蹴って空に身を躍らせた。月光にその勇姿が浮かび上がり、金の角がきらりと煌めいた。
その光景を、グレゴールは一生忘れないだろう。
気がついたとき、彼はゲオルクに猛烈な体当たりを喰らわせていた。
ゲオルクは呻き声をあげてひっくり返り、銃はその手から吹っ飛んだ。犬たちは混乱し、もつれあって、そりは危なく平衡を失いかけた。斜めになったまま雪だまりへ突っ込んでいって───それから、すべてが静止した。
少しのち、ゲオルクは黙って起き上がると、肘をさすった。そしてそりを降りると銃を探しに行って、雪の中から拾い上げた。
当然ながら、一角獣の姿はもうどこにもない。
重苦しい沈黙… やがて彼はぽつりと言った。
「何の真似だ?」
グレゴールは何も答えられなかった。
「よう、みごとにぶち壊してくれたな」
ゲオルクは犬たちを宥め、ねぎらってやり、その後みんなで力を合わせてそりを雪だまりの中から掘り出した。
それからそりは向きを変え、帰途に就いた。今夜の狩りは終わったのだ。
犬たちにもこの気まずい空気は伝わり、みんな元気なく首を垂れていた。
<黒山羊の家>に着くまで、彼らは一言も言葉を交わさなかった。
つづく→
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